~捨てきれない、マイカヌーへの憧れ~ 「鳰の海に響け腹鼓」の答え合わせ的な何か【2】
「鳰の海に響け腹鼓」の解説的なもの、続きです。
ゲジナンに物申したい私ですが、そもそも注意力不足なので車の運転が怖く、車の免許を取ろうなどと思ったことは1ミリもありません。自転車を愛用していますが、自転車でさえ、たまに何もないところでこけるのです。
ある日、自転車で盛大に転び、その衝撃で立ち上がれずにいた私に、見知らぬ人が吹き飛んだ荷物を手渡してくれました。ありがたみ。
怖いんだ果てしない水平線が
右ヨシ左ヨシ三方ヨシ
そんなことにさえ自信が持てなくて
そんな私ですが、どこを見渡してもヨシしか生えていない、だだっ広い琵琶湖の上をカヌーで進むくらいならできるんじゃないかと思い、マイカヌーのある暮らしに憧れています。
でも自転車でこけたとき腰にできた傷痕が消えない私にとって、ヨシしか生えてない琵琶湖でカヌーに乗ることさえ不安なのです。マイカヌーもろとも琵琶湖の藻屑と化す予感しかしません。
でも今は良いのです、ビワイチ(超短縮ルート)で琵琶湖のヘリをぐるぐる回ってるだけで幸せです。
(ビワイチ=自転車で琵琶湖一周。走っている間、四六時中湖を隣に感じていたいという、物好きな方のためのサイクリングロード。)
琵琶湖のあまりのヨシの多さに、ビワイチ中はつい「右ヨシ左ヨシ右ヨシ……なんつって」などと言ってしまうこと間違いなしです。
滋賀県はヨシの素晴らしさを滋賀県民に知らしめるために、ヨシ狩りのボランティアを学校などを通じて勧めてきます。
しかし私はヨシ狩りに行ったことがありません。コミュ障な私は地域の人に会うのが怖いのです。
あとたぶん、ヨシ狩りそっちのけでカヤネズミを追いかけてしまいますね。
ちなみに三方ヨシとはヨシの種類ではなく、「右よし左よし右よし」のことでもありません。
近江商人の経営理念「売り手良し 買い手良し 世間良し」のことです。
外来魚回収ボックスに腰掛けて考える
ブルーギルとブラックバスと
それを食べたかもしれないカワウの命をさ
滋賀県は根深い漁業問題を抱えています。琵琶湖には固有種や多様な生物が住んでいましたが、ブルーギルやブラックバスといった外来魚が繁殖してしまい、今や琵琶湖で釣れるのはほぼ外来魚なのです。
その外来魚を放り込むため、湖畔に備え付けてある箱が外来魚回収ボックスです(※ボックスに腰掛けてはいけません)。
私はたしか小学校の授業でブラックバスの唐揚げを食わされました。滋賀県曰わく、外来魚の駆除は「豊かな生態系や固有種を守るため」です。
その外来魚は人の手で放流されたと言われています。
また、琵琶湖にはカワウという水鳥が多くいます。
川に住む鵜でカワウです。鵜飼いの鵜は主にウミウだそうです。
琵琶湖にいっぱいいるカワウは外来種ではなく在来種です。
カワウは昔はたくさんいたそうですが、水質汚染や環境破壊で1970年代には3000羽以下に減り、絶滅の危機にさらされていたそうです。
しかしその後奇跡的に生息数が回復。今では15万羽以上に。そして滋賀では魚を食べるカワウが増えすぎたため漁業被害が深刻になり、カワウが殺処分の対象となりました。
つまり、今は保護の対象であったり、親しまれ可愛がられている生物も、数が増えたり問題が発生したりすると、急に悪者にされ、殺処分の対象となる可能性があるということだと思います。
私たちは「数のコントロール」や「人間の利益」のための理屈に踊らされ、生物への勝手な善悪のイメージを持っているだけなのかもしれません。大衆へのイメージコントロールは、やり方によっては簡単かもしれません。
ゴミを荒らすカラスだって、ゴミ置き場が存在しなかった頃は、ゴミを荒らすという行為自体なかったでしょう。自然界に元々ゴミはありません。でも我々の文明の発達によって問題が発生すると、我々は生き物の方を「問題のある存在だ」と考えます。
人の手で連れてこられた外来種は、自然に増えた在来種は、本当に殺すしかない命なのでしょうか……。
ダイダラボッチにとってはすべて
一掬いの土の欠片かな
私の手のひらに乗せた小さなゲジベビーみたいな
巨人の妖怪ダイダラボッチが、富士山を作るために滋賀の土を掘って取り、その跡が琵琶湖となったといいます。
一掬いの土の跡にできた水たまりで起こる、命の悲哀。
一般人には止めようがないのでしょうか。
特定外来生物に指定された生き物は、飼養・栽培・保管・運搬・輸入等が規制されます。生きたまま運んだりしてはいけないのです。
外来種と在来種の何が違うのだろう。
カイツブリとカワウの何が違うのだろう。
……けどそんな議論も線引きされたものでしょう。
誰も殺虫剤の缶にゲジが描いてあることに異議を唱えません。
気持ち悪いものは殺され、疎まれて当然だからです。
……当然なのでしょうか。
もしかしたら、殺虫剤の缶にゲジやヤスデやダンゴムシが描かれていることで、特に実害がなくても、「殺しておいた方が良いのかな」「何か害のある、危険な生物なのかな」と人に思わせてしまう可能性はないでしょうか。
実のところ、何に害があるかないかというのは分からないことだらけなのだと思います。
ただ確かなのは、人間が数多くの生き物に害を及ぼしてきたという事実です。
命の選別とイメージコントロール……。それで私たちの生活は回り、利益を失ったり得たりしている人がいる。私も人間の生活をするために生き物たちを犠牲にし、無意識に線引きしている。難しいことです。
ただ、人間は企業的に「戦略」とか「生き残りをかけた」とか堂々と言って良くて、市場競争も自由にしているのに、生き物は人間に勝ってしまったら殺されるんですね。人間だって誰かが勝った分どこかが倒産とかしているだろうし、新しいものが開発されれば古い方が廃れてきただろうに。貧困だって人類のシステムが生み出したものだし。
生き物が人間を苦しめているんですかね。人間以外のものを悪者にしているだけなんじゃないかと考えてしまいます。
私の手のひらに乗せた小さなゲジ。
握り潰したら死んでしまいます。
現代において生き物の立場とは、そのような状態です。
いつも人間の手のひらの上。
可愛いかどうか。気持ち悪いかどうか。
みんなに愛されるデザインか。
大衆受けするか。流行りそうか。
見ていると癒されるか。良い経済効果があるか。
悪影響はないか。役に立つか、立たないか。
生産されたり駆除されたり。
「こんなものが好きなんて言ったらみんなにおかしいと思われる、嫌われる」と思ったり思わなかったり。
私たちの判断基準やイメージは、誰かから植え付けられたものかもしれません。
役に立つものはイメージアップされ、なんとなく良いもの、人間に味方してくれるもののようにみんなが思い込む。創作で良い風に描かれる。実際はどの生物も別に敵でも味方でもないだろうに。
害があるとされる生物は悪いイメージを植え付けられる。創作で悪者として描かれる。当然のごとく悪意を持って行動しているかのように人々が表現する。本当は生き物に悪意なんてなく、本能にそって動いているだけなのに。
生き物たちは進化の途中。これから人間にとって都合の良い存在になるかもしれないし、都合の悪い存在になるかもしれない。害獣が益獣に、益獣が害獣に。
稲妻は時に人を殺すかもしれませんが、ゲジが人を殺したことはあったのでしょうか……。
続く。