6月30日 神秘主義がうさん臭く聞こえる理由。
様々な手段で、いわゆるプラトンの言う「イデア界」に至ることは、困難ではあるが、人にできないことではない。万人が出来ぬにしろ、出来る人は一定数いるようだ。
だが、イデア界を感知する、あるいは禅でいうところの「小悟」にようなものに至ることで、人は「自身が神を見た」あるいは「神と一体化した」、あるいは「悟りを得た」と思うことで、「慢心」に至ることがある。
ここが難しい。例えばイデア界を感知するようなひとが、慢心などするものだろうか。
普通はそう思うものだが、どうやら違うようだ。
そこに至れば、誰でもその境地になる。だが、そこでその人の人格までがもれなくアップグレードするわけではないようだ。
その慢心からきちんとした形で「下降」して、そのことを衆知してゆこう、という思いを持つことこそが必要なのだ。
そういう意味では四聖といわれる人々はすべて民に自身の得たものを伝えようとしている。そのことがまずわかるから、接した人はそのひとのことを尊く思うのだ。
本当は自身が個人で、いわば自身だけのためにその桃源の境地に遊び続けてもいい。実際そういう人は多くいるのだろう。
だが、プラトンは洞窟の比喩で、きちんと下がってくることをセットで必須のこととして説く。
宗教、ということばは難しい。すべからく「人を超えた神」がいて、それを信じるのが宗教だ、と思っているからだ、ふつうは。
そして「ああ、私は別に神は信じていないなあ」と思えば、
「私は宗教がありません」あるいは端的に「神を信じません」となる。
だが、プラトンの説くところを見てみると、洞窟の比喩で示されるもの、その過程こそが「宗教」と呼ぶにふさわしいように思われる。だがそこには「神」ではなく「イデア」が、「イデア界」が、あるわけだが。
プラトンのそれは、哲学といわれる。だが例えば「新プラトン主義」と後世に呼ばれる(いわれた人はその当時、「自身は新プラトン主義だ」などとはつゆほどにも思っていなかったようだが。すくなくとも「新」つまりプラトン本来のものとは同一ではないようなニュアンスは決して思ってはいなかった)立場は、現代の目からみると哲学より宗教寄りであるように映るだろう。なので「新」という語が付けられているのだろう。
本当はどちらでもいいのだろう。だが、「哲学」は万人に開かれた学問で、「宗教」はどちらかというと学ぶより(歴史的に研究することはあろうが)嗜好性のもの、とここ日本では思われていると感じる。行ってしまえば「一段下にみられている」面があるかもしれない。
宗教と哲学の違いは、池田晶子さんも注目されていたようで、教祖に奉られることだけはないように気にしている、とおっしゃっている。
信じるよりも考えることを行え。と。
信じる、ということは、目をつぶって考えないことを示すことがあるのだろう。
或いは小林秀雄が戦後
利口なやつはたんと反省すればよい、
と「反省」のポーズで世渡りを行おうとする精神がさもしいものだとして糾弾したようなことも、
すこし思い出したりする。
(行って帰って来た人、というのはやはりなかなかないのでしょうね。。池田さんは多分その一人で、だから「菩薩」=衆生を救おうとされる存在、と呼ばれたのでしょうね。宗教的ではなく、姿勢として)