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2月26日#日記 毎日が早く過ぎる、と感じるのは、裏に(変化のない毎日=平穏な毎日が続いてほしい)という気持ちがあり、早く過ぎる、と思いたい気持ちがあるのではないだろうか。

変化、というのは恐ろしいものだ。良い変化もあれば、心配になるような変化もある。そしてその中に半ばあきらめて入っていけば、実はその変化は貴重なものであったのだなあ、とあとでしみじみ思うようなこともある。

勿論逆もある。

歳を取ると、1年があっという間である、と感じる。若い時は、1年をとてつもなく長く感じる。これは歳を取る=1年を過ごした記憶が蓄積される、ということで、パターン認識が進んでそれぞれの事項にそれほど頭を悩ませない(働かせない)というようなことがあるようにも思う。

一方で、個別案件にそれだけ定型的に(=意識を注入せず)すごすことが多くなるわけで、それがあるいは「老化」といわれるものの一部のような気もしている。

私は最近、目の前にないと忘れてしまうことが多くなった。なんとなく脳内メモリーが少なくなっているような気もするが、あるいは昔から忘れまくっていたのかもしれない。

中動態、という概念がある。例えば歩くことについて我々は個別で細かい筋肉の動きを事前にプランして行っているわけではない。能動と受動のあいだのそうした動きは実はいわれてみるとたくさんあるような気がする。全てを能動と受動の二つに分けるのはもしかすると乱暴なのかもしれない。

だがそれは例えば受動との区別がつきにくい。完全に受動ではないが、受動的な動きであるような気もする。また、筋肉は随意筋と不随意筋があると思う。不随意、という意味は意思なく自働で動く、というようなことだろうから、もしかするとそうした「中動態」という概念は、筋肉の動き方の概念(設定)に収斂してしまっているのかもしれない。

例えば風呂に入る。最近はいちいち石鹸を取ろう、と思って取っていない。なんとなく自動で取っている。自身を観察すると、取ってから、「取った」と思っている感じだ。取ろう、と思ってからとっていない。これは随意とは言えない。不随意筋とは条件反射というか、刺激に勝手に反応することだろうから、不随意筋の概念に中動態を埋め込むのは本当はおかしいのだろう(子供のころは、さあ、石鹸を取ろう、と思ってからとってた気がします)。


そういう「自動に動く生活」が日々生活の中でほとんどとなると、どうやらもの忘れが発生するようだ。ただ例えば禅などでは、一息一息、歩く場合は一歩一歩を意識する、というようなことで、心が安定し、丁寧に生きることにつながる知恵があると思う。

ということで、日々の生活で物忘れがひどいことに対し、今時分はこれを持った、これを置いた、というような個別確認をすることで、忘れ物発生と防止するとともに、私的禅的気分で日々を過ごそうかな、と思っている。

(いままでは忘れるとただただ落ち込んだりしてましたが、落ち込むことは実はあまり物事を良化しない、という風に最近感じております)

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豆象屋
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