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冷笑主義は「好き」をも殺す

おはこんばんちわ、37歳にして「仕事ってなんだろう」の一大クエスチョンにいどんでいるネキです。

今回は「自分の感情を知るワーク」でもキーワードになっていた、「好きなこと」と自分の距離感について、幼少期~現在に至るまでの流れを振り返ってみようと思います。
物心ついてからはどちらかというと「嫌い」の感情を優先して生きてしまったので、今でも「好き」という感情の輪郭がボヤ~ッとしてて、自分の「好き」に自信が持てないんですが、じっくり振り返ることで、そのあたりの解像度がちょっとでも上がったらいいな~。

では行ってみよ!

幼少時代 「好き好き大好き超愛してる。」期

とある地方都市……というか完全無欠の山間部に生まれた私は、活字に飢えた子どもだった。

イカした本屋や大型図書館に気軽にアクセスできなかったので、GEOのチラシやエッセンシャルダメージケアのシャンプーボトルの成分表示まで余すところなく読みこみ、実家に捨て置かれていた五木寛之全集にも手を出した。読めない漢字や知らん単語を飛ばしまくりつつも、生理中の女を描いた、なんかエロい話を覚えてる。
半年に一回くらい、学校で推薦図書の販売会があり(切手と交換する形式だった)、そのときは好きな本を一冊買ってもらえたので、それを繰り返し繰り返し読んでいた。

あとは漫画。自転車に乗り始めてからは一人で小さな本屋に通えるようになったので、休日は午前中3時間、お昼食べて午後は4時間、ぶっつづけで立ち読みして、毎回脳貧血で気持ち悪くなりながら帰った(あのときの本屋さん…クソ迷惑客すぎて本当申し訳ない)。
月刊雑誌の発売日はわくわくしすぎて、勝手に早退して買いに走ったこともあるな~

学校ではふつうにみんなと楽しく過ごしてたけど、本に触れてるときはその世界にドップリつかって、いつもの自分との乖離感を手放しで楽しんでいた時期です。

思春期 「好き、ってけっこう恥ずくない?」期

自我の目覚めがヒジョ~に遅かった私ですが、それでも中学生くらいになると「本を読んで一人楽しむ自分」と「無邪気に学生生活を送る自分」の乖離に違和感を覚えるようになってきた。

今考えると乖離もクソもなくて、場面場面でスイッチが切り替わるのはごく当然の話なんだけども、当時の自分としては裏ネキが仮面をかぶって、どうにか表ネキになれてるような感覚だった。
ったく私ってば真面目すぎ、かわいすぎ。

そこで選んだ解決法が、「本を読む自分」を人前ではあんまり出さないようにすること。乱読からお気に入り作家を見つけるフェーズに入って、ときどきはお小遣いで文庫や単行本を買えるようになっていたけど、感想を誰かと共有したりはしなかった。
「好き」は隠しておくもの、自分の弱点、みたいな感覚はここから生まれたんだろうな。うっかり表に出して馬鹿にされたり、安易に否定されたくないって気持ちもあったし。

そんなこんなで、好きなアニメや俳優やアイドルの話で盛り上がっている同級生たちの姿がすごく無防備に、恥知らずに見えたのを覚えてる(我ながら「恥知らず」ってすごい)。
誰かの「好き」を外から馬鹿にしたり、安易に否定してたのは、何を隠そう自分だったという、ひねりのないブーメラン展開になるわけです。

ハタチ前後 「冷笑、逆張り、興味ないね」期

ここからが、「好き」の取り扱いを今でも後悔してる時期。

山間部から一転、大都会の大学に進学し、私はめちゃくちゃ気を張りまくっていた。地方出身だからってなめられてたまるか!と鼻息も荒くたどりついたのは、薄暗い映研サークル。
正直、華やかでキラキラなキャンパスの雰囲気に呑まれていた私は、その湿っぽさや混沌や、死んだ目をしたはぐれ者たちにほっとした。
そして、長いこと封印してきた「裏ネキ」もここでならのびのび振る舞えるんじゃないかと考えました。でも、しょっぱなにくらったのはサブカルの洗礼。

「好きな映画は?」
「『リリイ・シュシュのすべて』とかですかね」
「あー……はいはいw なんか分かるわww そしたら『PiCNiC』も見た?」

……見てるわけねえだろ、GEOに置いてないんだから。

当時のサブカル界隈にはまだ、「この分野が好きでコレ押さえてない奴はニワカ」的必修科目が存在していて、映画はもちろん、たくさん触れてきたつもりの本や漫画の話にもまったくついていけなかった。
amazonもNetflixもミニシアターもない地方出身者(当時)は、情報弱者にならざるを得ないとそこで初めて気づきました。

べつに情弱上等でしょ、まだ見ぬ名作いっぱいあってサイコ~じゃん!と今でこそ思えるけど、なめられたくない田舎者は恥ずかしくてたまらなかった。

ようやく外に出せた「好き」は、雑魚の「好き」だった。
そう思い込んだ私は、広くなった世界のなかで「好き」を追及する代わりに、「嫌い」を研ぎ澄ませることにしました。

対象に時間をかけて向き合わなければ「好き」は語れないけど、「嫌い」「興味ない」は外側だけササ~ッと眺めて簡単に言える。
ありがちな「好き」でキャッキャしてるより、斜にかまえてブツクサ言ってる女のほうがなめられない。

はい、最悪。
ここで、「感情」より「プライド・自意識」を守る方向に舵を切ったことがわかりますね~。
そして、かつての「好き隠し」よりタチが悪かったのが、そんじょそこらのものには興味ないねポーズを取りつづけていたら、実際に「好き」が退化してしまったこと。
気になる本や映画を「メジャー」というだけで敬遠したり、世間で絶賛されてる作品を逆張りで馬鹿にしたりするクセがついてしまいました。

馬鹿はてめえだ!!!!とジャンピングラリアットをくらわせたいですが、なめられたくなくて必死だった自分がいじらしくもあります。ヨチヨチ。

ちなみに、サークルの面々は全員サブカルマウントクソ野郎だったわけではなく、何を言われようと自分の「好き」を黙々と追いつづけている人もちゃんといて、今でも付き合いがあるのはそんな彼、彼女たちです。

社会人暗黒編 「楽しい奴らは全員○ね」期

先日この記事でも書きましたが、私の社会人デビューは暗いものでした。

朝から晩までの労働と叱責と「仕事ができなさすぎる自分」に全方向を包囲され、当時私の精神状態は最悪だった。
貴重な休日に好きな作家のエッセイを読んでも「暮らしに余裕のある人は違いますわいな~」と鼻で笑い、カフェで談笑する小ぎれいな女の子たちを見れば「フウン、ずいぶんチャラチャラした世界で生きてますね。私は違いますけど」とマウント。
日々続いていく凡庸の中に光を見つけるその作家の視点も、自分なりにおしゃれしてカフェでくつろぐのも大好きだったはずなのに。

いちばん危うかったなと思うのは、チャリ通勤で大きな公園を突っ切る際、幸せそうに週末を過ごす人たちが憎くてたまらなかったこと。エレカシの『ガストロンジャー』をiPodで爆音で流しながら、心の中で叫んでいた。

おまえも!おまえも!おまえもおまえもおまえも!!
楽しい奴らは全員○ね!!!!!!!!!

いや、ほんとに危うすぎる。
その後起きた無差別殺人のいくつかに関しては、自分の世界の外にある、遠い出来事ではなかったなと今思います。絶望の端っこをほんの一瞬かすめただけの私ですが、悲劇はあのヘドロのような気持ちの行きつく先にあると、身をもって理解しました。

自分の「好き」を放棄するだけでなく、他人の「好き」すら許せなくなっていた時期です。

至、現在 「好きとはどういうものかしら?」期

まわりの人や幸運に助けられ、なんやかんやで暗黒期を脱した私は、15年位ないがしろにしてきた結果、今や瀕死になってしまった「好き」と向き合っています。

30分のドラマも集中して見つづけられず、気になる本はタイトルのメモが積ふえるだけ。のわりに、どうでもよすぎるネットニュースはスマホでだらだら見つづけてしまう。興味ぶかい人を見つけても決して自分からは誘わない……

いや~、ちょっとこの状況、つまらん。
つまらんし、このまま行くと「好き」が完全に死ぬ気がする。

「仕事ってなんだろう」にくっついてきた「好きってなんだっけ?」を考えていたら、そんな危機感が生まれてきました。

・毎日やりたいわけじゃないから「好き」じゃない
・仕事or金につながるほどやりこんでないから「好き」じゃない
・めんどくさくてやりたくないときもあるから「好き」じゃない
・すぐ飽きるから「好き」じゃない
・ほかの人の前で堂々と口にできないから「好き」じゃない

気を抜くとすぐこんなふうにハードルをめちゃくちゃ上げてしまうけど、できるだけそのハードルを取っ払いたい。
すぐ飽きてもやめても俗っぽくてもくだらなくてもいいから、「これが好き」を自分に許して、もっと軽薄にガバガバに無責任になっていきたい。

いろいろと振り返り、そんなふうに思った次第です。
にしてもめちゃくちゃ長くなったな~、疲れた!

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