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探す散歩、ではなく"ただ"の散歩、"自分のための時間"

私、おさんぽと申します。散歩が好きなんです。
あのさ、、いまさら~~何^^?
ですよねー 
なんですが、
なんかちょっと、始まりから書きたくて・・書きます。

20年くらい前、お恥ずかしいのですが、すげー太ってきたので(笑)、
できることからなんかしよ、、と思って
夜明け前に起きて、1時間ほど、近くの河原を歩いてみる、を続ける決意!
をした、、以上です、はっ??
何が言いたいかと言うと、
下の子はまだ小さかったし、お弁当も作らなきゃいけなかったし、それは、
その時の私にとっては、自分のための時間を作る、ということが
まあまあ大変で
そーとーな決意だったと思われる!ということなんです。

中間の15年くらいは、歩きがノロノロ走り、になってました。
少し、瘦せましたし、筋肉がついたりして、そうすると欲も出て、
日課になってきて、
頑張って続けてました。
お金もないのに、ジムに通って、ヨガも始めたり、、したんですが、

いわゆる、金の切れ目がやってきて、
息子の進学やら、野球部も大変になってきて、引っ越しもして、
転職もして、
ジムもやめてしまって、
毎日の日課が、ときどきになって、、そして
どうでもよくなった、、という情けなさ。。。です

そーこーしているうちに、
covid19が押し寄せて、グルグル、ウロウロ
不安と心配ばかりで、逃げ出そうにもどこにいけばいいのか、
わからない。
目つぶって、なんとか踏ん張る、それだけだったのよね。

お陰様で今も生きている、そのことには、有難さしかないのですが。

noteにいろいろ書くようになったのもこの頃。
何だか分からないけれど、書きたかった。
しがみついている、、感じ。
そうやってやり過ごした、思い返すことが難しい、曇った時間があって
さらに
コロナ期間に見えなかった、見ようとしなかった実父母の
介護に直面した3年。
直面と言ったって、面倒は施設にお願いして、家を片付けただけ、だし。
嫌々だったんだから、まったく誇れることではありませんよ、ホントに。

そう、時間とか
降ってきた出来事とか・・のせい、にしよう!
おさんぽ、の最初の時点は、今はもう
遥か彼方に去ってしまった、、「さんぽする」という、
決意も筋肉もすべて、飛んでいきました!
おわりー!!
おー、ちゃうちゃう・・待って待って。
ちょっと、始まりに戻ってみます。

さんぽ、を始めた当時、
私、まともなウォーキングシューズも持ってなくて、
娘の上履き?みたいなヘンな靴で行ったのですけど、
未だ暗い早朝、
一人で堤防の階段を下りて、はじめて自分の足を河原においた時、
名もない雑草に覆われた地面が、ものすごく「フカフカ」と感じられて、
その時、突然、
子どもの頃遊んだ、団地の中の空き地の土の感覚が、
足裏に、よみがえってきたんです。
「なんていいきもち!」「これこれ」
スキップしたいくらい!
それが、私、おさんぽの原点だなあ、と思います。

そして、
河の流の上には、橋以外の建造物はありませんから(通常は、です)
向こう岸を見れば、河川敷の松、桜などの樹々や、遊歩道、堤防に生えた雑草たち・・見上げれば、広い空。
リバーサイドは、
およそ視線を遮るものはなく、流れに沿って 広々とした眺望が確保される場所です。
だからね、やっぱり
心が解放されるようにも思います。

日が昇る前、東の空が、ちょっとだけ明るくなると
河原の木々が、まるで、精巧な影絵のように浮かび上がる時があります、
その様は、とても綺麗です。
朝の営み。
辺りがだんだんと、朱色がかってきて、やがて静かに光に包まれる。

昔から、洋の東西を問わず、人々は、朝日を拝んできた、そうですが、
暗い夜が明けて
朝が来て、日が昇る、という繰り返しは、
当たり前ではない、
宇宙の中のトクベツすごい事、なのかもしれない。

スズメやカラスが、ちゅんちゅん、かーかー集まり、鳴きはじめ、
河原がにぎやかに、明るさを増すころになると、
私は急いで家に帰り、台所で着替えながら、
バタバタと弁当作りに朝ご飯仕度、時間割を確認したり、天気予報を見たり、ゴミ捨てたり・・
大忙しだったなあ。

最初のきっかけは もはや、どうでもよくなった感じで、

美しい朝、と、足の裏からの心地いい 土の感覚を求めて
おさんぽ、あるいはランニング(のろのろ)に出かけること、

それが、私の好きなこと、であり、
私が自分に課した、そして自分に与えた、自分のための時間でした。

年頃の女性は、特に日本では、まだ、家事育児、仕事、もろもろに追われていて、
自分のことを、じっくり考える時間を持つことは
難しいかもしれない。
そろそろ、子どもも大きくなって、楽になるかなあ、という頃には
親の介護や相続の問題があったり、自分自身が病気になったりして、
いつまでたっても 自分の時間が持てない、となりがちだ。

ずっと好きな事、やってきたこと、があって
そこに照準を合わせ続けること、ができる人は、
多少中断があったり、壁ができたとしても、
自分を取り戻すことができるかもしれないが、

自分のために意図して設ける空時間 ≒ 自分を見つめる時間。

目的とか理由のない、ただの「好きだから」「楽だから」
そこにいる、それをやる、という時間 が、

全くなかったとしたら、

人が自分の内側に目もくれず
外側に振り回されているだけだったら、
自分のスキを探すこともできないし、
知るよしもなく、
何のための自分なのか、
自分を持て余してしまう、のも当然かもしれない。

ちなみに、
散歩とは。wikipediaさまによると、
【気晴らしや、健康のために、ぶらぶら歩くこと】
【散策、そぞろ歩き、逍遥】
そうか。今は
【健康のために】というのが、なんかちょっと強くなっているようですけど
【逍遥】は
あえて、目的なく歩き回る、その結果ソクラテスに出会うかもしれない、
感があって、いいですね。

何かに追われている方たちへ、
ほんの隙間の時間、短時間でも
さんぽ、じゃなくても、「逍遥」じゃなくてもいい、

目的なく理由なく、自分でいられる、時間を持ちましょう。
そのために、社会の手助けが必要なら、助けてもらおう。

最後に
私が尊敬するnoterさんの記事をご紹介します。
一人で介護、特に認知症介護を抱え込むことの危険性と
案件を手放す、という提案、について です。
一連記事でして、どれも勉強になるし、励まされるので
辛さを抱えてらっしゃる方、ぜひご訪問下さい。

朝から思い立って書き始めたので、
掃除も何もできてない・・昼過ぎ。

誰しもが、大事な人です。
あらゆることを、一挙に解決できなくても
すこしずつ改善できる道はきっとあると思う。

よし、掃除しよ。

おさんぽでした。