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現実って何なんでしょう

皆さんこんにちは、siroです。

突然ですが、私の好きな著者の一人に、橘玲さんっていう人がいます。
『言ってはいけない』や『バカと無知』、『スピリチュアルズ』など多くのヒット本を出されてる有名な方です。

私の中で橘さんのイメージは
すごく冷静かつ客観的に物事を観察して物事の本質や事実を見抜くのが上手な人
です。

私が橘さんの著書をいくつか読んでいくうえで深く考えさせられたのが、
”努力でどこまで自分を変えられるか”
っていうもの。

もし、努力でほとんど際限なく自分を変えられるなら
能力主義の社会は正当化されるし、成功に向かって邁進するのももっともなことです。

しかし、
現代科学では努力の程度を決める遺伝子の存在が認められたり
養子として別々に育てられた一卵性双生児が大人になった時の相違点などから
実際に変えられる余地はあまりないんだそう。

つまり、極論”個人の努力”などというものはほとんど存在せず、全員が成り行きで時間を流していった結果が人生だと。


私は努力をしない側で、なあなあに過ごしてきたから飲み込みやすいけど
人生に本気で向き合いながら頑張ってきた人ほど理解がしづらいことらしいです。

ただ、普通に考えて能力主義をかばう人たちは
努力できる人とできない人の差は、心持ちや効率、向き合い方などにあるっていうらしいけど、
そもそもなぜその差が生まれるのか、
説明するには環境の運ぐらいしかありません。

でも、彼らは運じゃない、実力だっていう。
努力量が遺伝で決まっている以上、
自分が努力しているという実感があるっていうことが一番の立証になっているわけですね。


もしこれが事実だという風な理論が完成してしまって、世の中に広まれば混乱を招くかもしれません。
『利己的な遺伝子』の、
”本当の思いやりなどない”っていうのですら絶大なインパクトですから、
”本当の努力などできない”となれば、凄いことになりそうです。

何より、倫理の問題とか関係なしに
仕組み上、能力主義を終わらせることは現実的じゃないですからね。
共産主義みたいになってしまうし、
完全な倫理性を担保した楽園は生物として不自然です。


今後こういった、
”世の中の虚偽の前提”
が壊れる機会が多くなっていって
再び、各個人に宿っていた神様は死んでしまうのかもしれません。

人間の価値は平等だとすれば
なぜ完全な自由貿易をしないのか、
人種ごとの能力の差をどう扱うか、
そもそも人の命とほかの命の差は…

など、考えるだけで頭がおかしくなりそうなほど複雑に入り組んだ倫理の問題に向き合わされる日が来るのは目に見えています。


その問題を目の前に混乱をしすぎないように、
自分でよく考えて慣らしておくこと、すがれる趣味などを見つけておくことが大切かもしれませんね。
どんどん人間は無気力になっていくように感じるけど、案外そんなこともないんでしょうか。
悟り世代みたいなのも、それの動向の一環のような気がしてて。

何より悟り世代の考え方には骨の髄まで共感できるので、余計。


日々をうまく流して参りましょう。
thank you for reading~👋


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