「意味」を見い出したくなるとき
今朝、釣り好きな夫が新鮮な鯛を買ってきた。
今日は、先日生後100日を迎えた息子の百日祝い(お食い初め)だったのだ♪
お赤飯、鯛を焼いたもの、ハマグリのお吸い物、煮物や香の物など、縁起が良いとされる品を赤ちゃんに食べさせる真似をする行事。
この行事には、「一生食べ物に恵まれるように」「丈夫な歯が生えてきますように」などといった願いが込められている。
用意した祝い膳を食べさせる儀式には、食べさせる順番が決まっている。
ご飯→お吸い物→ご飯→魚→ご飯、など、ご飯を毎回挟みながら、順にすべての品物をお箸で赤ちゃんの口へ近づける。
それが一周終わったら、あと二回それを繰り返すのだ。
全部で3回その動きを繰り返すことになる。
最後は、歯固めの石で締めるのだが、きちんとやろうと思うと、なかなか時間がかかる。
なぜ3度も繰り返すのだろうか??
「3」という回数に何か意味があるのだろうか?
まずその疑問が浮かんできた。
1回目は、「体験」
2回目は、「練習」
3回目は、「本番」
のような捉え方は浅すぎる考えだろうか??とか考えてみたりして。
これに関しては、調べても情報はなく疑問は残ったまま。
そこで、ふと気づく、
「そこに意味を見い出さなくてもいいのではないか」と。
何かしら「意味」を持たせようとする自分の思考に気がついた。
もし、そのお食い初めの儀式が1周するだけ良かったとしたら、
なぜそれを後2回繰り返さないのだろう?1回しか行わない意味は??
なんて発想にはならない。
となると、
「労力」を使うことに関しては、何かしら意味を見い出したくなるということ。
要するに、こんなにやるんだから、何か良い結果(効力)があるんでしょ?
って、何かを期待したり、求めているんですね。
それは、たくさん働くとたくさんお金がもらえるとか、たくさん勉強するといい点数が取れるとかっていう、過去に何度も聞いてきた言葉や固定概念からくる思考かもしれない。
いつだって「思い込み」はどこかに隠れているし、何かのきっかけでこうして気づかされる。
今日は「お食い初め」でも出てきたか。と笑ってしまった。
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