noteを辞める人が多いのは書くことと交流が苦痛になりがちだから
タイトルからちょっと離れますけど、
「noter」って呼び方、なんか好きじゃないんですよね。
っていうのもね、note書いていれば10万人フォロワーが居ても仲間内でほめあっている人も何のリアクションも無い中でひたすら独り言を書き続けている人でもnoterなんですよ。
なんかね、アレに似ているんですよ。
卒業証書なんて何にも嬉しくなかった時のこと。
普通に学校通って、授業受けて、それだけで全員等しく卒業証書もらえちゃう。
中学校までだったらテストで0点取っても卒業出来ちゃいますからね。
まぁつまり、選ばれた人が貰えるっていう趣旨のものじゃなくて、顕著な実績も要らない。
親の立場だとまた受け止め方が違うんですけど、当事者としては「そりゃ貰えるだろうよ」くらいのものでしかない。
だから、noteを書いている人を持ち上げたり特別感を煽ったり、それと並列に居る自分をブーストしていく気持ちが透けて見える時に「noter」って言葉を使っているのを見ると
お前、美川憲一と神田うののほめ合いかよ
ってなる訳です。
圧倒的に感覚が古いけど。
最近誰が褒め合っているんだろう。
宮迫とヒカル辺りになるんだろうか(リサーチ不足)
noterって言葉がそんな風に使われることが多いので何とも言えない気持ちになることって多いんですけど、最近ちょっと気になることがありまして。
凄くいい記事を書いていた方が結構note辞めているんですよね。
それこそ、noterって称号が似合うような方です。
独自の感覚があって、それを文章化出来て。
そういう方には良い読者の方が付いて、良い交流があって。
Voicyを中心に発信するようになってからこういうnoterさん(敢えてこう表現します)と疎遠になって、ふとnoteに戻ってきて、最近交流していなかったなぁと思って検索すると出てこない。
過去のコメント欄見てみたらそこからも消えていて察する。
って感じなんですよね。
ちょっとnoteに疲れてもアカウントを消さなくてもいいのにっていうのはずっと考えとしてはあるんですけど、不思議と良い記事を書かれる方に限って消しちゃう気がしています。
なんでだろう
交流が出来なくなっちゃうからその理由なんて聞くことさえもできないし、聞いたところで本音なんてnoteの繋がり程度では見せてくれないでしょうね
だからもうこれは察するしかない
ただ、消すってことはもうnoteを書くということも辞めたいし、その人間関係も絶ちたいっていう明確な意思が見えるのは確かなんです
note辞めたいって言ったらもうこの二つの要素ですよね。
書くことと、交流。
能力的には書くことが出来る人でも書ける時と書けない時という波がありますし、
書きたいことをnote初期に書き切ってしまうとその時楽しんでくれた人を更に楽しませるネタが切れてしまうこともあるし、
本当は苦しい気持ちに支配されているけど、自分に求められている記事は違うからnoteの中の自分を演じないといけないという葛藤もある。
書くことに対する悩みを少し考えただけでもサラッと出てきます。
交流についても様々な状況があると思うんです。
文字ベースの交流ってどうしてもトラブルが起きがちで、ちょっとした表現の行き違いでさえも怒る人は出てきてしまうし、
普通に今まで接していた人と実は当然の感覚が全く異なる部分があって、その人の当然をぶつけられてサンドバッグになってしまうこともあるし、
トラブルを避けようとすると一つ一つの言葉を選ばなければならないので楽しい時は良くても疲れている時は交流そのものが億劫になるし、
これも色々ありますよね。
あと、顔が見えないからこそ気楽な部分もありますけど、一歩引いた時に顔が見えない相手との交流に大事な場所を作っている自分がふと空しくなる時がでてくる人も居ます。
特にこれは馴れ合っていることを深い部分で自覚しながらも、そのことから目を背けている場合において多い気がします。
noteじゃないところに確固たる居場所があって、交流できていて、あくまでもサードプレイスであればこの種ののめりこみ方をしなくて済むんじゃないかとは思うんです。
結局ね
過大に居場所とやりがいをnoteに求めすぎないことなんだと思うんですよね。
わかっちゃいるんですよ。
たぶんnoteやっている人のほとんどがわかっているけど無自覚になりがちかもしくは意図的にスルーしているところなんです。
自分のペースでまったり書くことを楽しみつつ、交流も無理なくする。これが一番noteやSNS交流をするうえで理想だと思います。ちなみに私の中ではkojuroさんが突出してこの部分がうまい方です。
コジさん知らない方は是非ご覧ください。
ただ、この付き合い方は誰にでも出来るわけじゃないし、書くことと交流のどちらかでつまづいてしまうともうダメになっちゃう。
で、つまづいて気づくんですよ。
あれ?noteってやらなくていいんじゃね?
って。
多くの方が自分の居場所をnoteじゃないところにも持っていて、noteが無くなっても別に影響はない。
逆にnoteに居場所を作っちゃっている人って、辛そうにnoteやっているケースが結構多く見られるんですよ。
これ、辛そうだからもうやめた方がいいんでしょうけど、noteが無くなったらそれはそれで大変じゃないのかな?って思う人。
特に詩を書かれている方に多い気がします。
なんかね、リアルなのかフィクションなのかよく分からないことを書いていて、「大丈夫ですか?」ってコメントが来ると「あ、フィクションなんで」って返すパターンもよく見ます。
そして心配されて「創作だってことがわからねえのか」みたいな感じでキレている人も居るくらいで。
しかしなんで病んでいることを創作に載せちゃうんだろう。そりゃ心配する人出てくるだろうに。この辺は傾向としては知っているけど、寄り添うことは出来ない範囲の話です。
なお、この手の方が妙にnoterっていう言葉を使うイメージなんですよね。noteに居場所を求めるがゆえなのでしょうか。
もしかするとnoteって、自分にとって楽なスタンスを考えたらそんなに要らないものなのかもしれません。
だから続けるにしても、コメントをくれる人の記事に自分も頻繁に足を運ばなくなったり、なんとなく書けるタイミングで気まぐれに投稿したりというバランスに落ち着くんでしょうね。
何者かになりたいって色気があると特に、noteってのめりこみがちなんですよ。
ただまぁ・・・
運命の王子様待ちくらいのスタンスで、自分から逆算して行動しまくるくらいの野心が無い方はその色気が昇華されることは基本的に無いと思ってもらった方がいいと思います。
王子様待ちしている間にライバルはどんどん先進んじゃいますから
無理なく続けられるバランスはそれぞれ違うと思います。ただ、noteってどうしても無理していないと自分を思い込ませながら無理しているっていう運用になりがちなので、そこは気を付けた方がいいです。
それこそ「あのnoterさん、辞めてる」になっちゃいます
2022年の後半ごろから半年くらいnoteを死ぬほど更新し、交流しまくって、得るものも多かったけどその熱量を音声配信(Voicy)にシフトするようになった立場だからこれは言えることかもしれません。
コメントもいいねも頑張らなくていいんすよ
面倒ならその辺はさぼっていいんです
なんだったらnoteから距離を置いてもいいし、辞めちゃってもいい
大事なのは楽しむこと。
それはnoteだけじゃなくて、生きることそのものに対して楽しむってことですね。
noteが拠り所になっちゃうのが一番マズい
noteを離れた生活を充実させて、そのうえでnoteがあるイメージですね。
もしかしたら生活が充実していて、noteをなんとなく始めたら楽しくなって、でも色々と大変になって辞めて、生活の方に回帰していくっていうことなのかも
だとしたらそっちの方が正常なのか
noteを続けている人こそ、向き合い方を見つめ直してもいいのかもしれませんね。
なんかそんな着地点になりました
普段は音声配信(Voicy)やっていますので是非お立ち寄りください。
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