生きた、書いた、愛した 中村裕監督『瀬戸内寂聴99年生きて思うこと』
瀬戸内寂聴の姿を17年間カメラで追った中村裕監督によるドキュメンタリー映画「瀬戸内寂聴99年生きて思うこと」を観た。剃髪した丸っこい笑顔に紫色の法衣を着た尼さんにして作家、瀬戸内寂聴の姿は、昨年99歳で亡くなるまで、誰もが知る日本を代表する「アイコン」であった。結婚、出産、家族を捨てた駆け落ち、文壇デビュー、不倫の三角関係、そして出家。波乱に満ちた人生のようでも、本人は「全力で生きてきた」と事もなげに語る。その姿は齢をみじんにも感じさせない。
カメラを初めて回した2004年、中村監督は瀬戸内寂聴との初めての会食で、本人の雰囲気に圧倒されて気後れし、カメラを回すのをやめてしまう。それほど上がっていた中村監督だが、その後二人は、カメラマンと被写体という関係を大きく超えて、友情とも恋愛とも言えるような、深い関係を17年も築いていく(二人が恋愛関係にあるのでは、などと勘ぐるのは野暮であろう)。当然、瀬戸内寂聴の素の姿が露わとなる。驚くべきことに、2004年から亡くなる直前まで、瀬戸内寂聴の風貌は、ほとんど変化していない。
二人の会話は、寂聴庵のダイニングキッチンで食事をしながらの場面がほとんどだ。そのメニューがすごい。霜降りのステーキや、焼き肉、とんかつといった肉料理をおいしそうに頬張り、昼間からビールを飲む。肉を食べるのは「色気を出すため」とのこと。原稿を書くためには、肉食による色気とエネルギーが必要不可欠なのだ。時々外食に出かけて、京都のすっぽん料理をたしなむ。離婚後一人暮らしを続ける中村監督の今後を慮るかと思えば、監督の方も「死にたい」と弱音を漏らす瀬戸内寂聴を励ますなど、時に本物の親子のようにお互いを叱咤激励しあう。
原稿は寝室のベッドを椅子代わりに脇の丸いテーブル上で万年筆で執筆し、業務用のFAXで原稿を送る。原稿の枚数の勘違いを秘書から指摘されて慌てて加筆するなど、お茶目な一面も。
戦争を経験しただけに、絶対に戦争をさせないという揺るぎない思いは、誰よりも強い。安保法案の国会前のデモに参加するために上京し、マイクで反戦を叫び、私財をなげうって新聞に反戦の広告を載せる。脱原発の集会にも参加し、廃炉を訴える。
元旦那さんの墓参りで、自らの過去を改装する。彼女の行いは道義的に反する大きな「罪」ではあるが、恋愛は雷のようなもので、避雷針は役に立たず避けることはできなという。人間を成長させるのは、本でも学問でもなく、恋愛だと断言する。
「生きることは愛すること」
至言である。
作品の宿命として、生前に瀬戸内寂聴本人がこの映画を観ることは叶わなかったが、きっと、「裕ちゃん、よく撮ってくれたね、ありがと」とお礼を言うのではないだろうか?
19世紀フランスの作家スタンダールは、自分の生涯を「生きた、書いた、恋した」の三語で表したが、瀬戸内寂聴も負けず劣らず「生きた、書いた、恋した」を貫いた99年の生涯であった。
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