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「身体を動かす」という極めて日常的な実践を通して〜無限の大きさを想像すると核心は"空"にあるのではないだろうか〜

身体をゆっくりと動かす時間がとても大切だと感じる今日この頃です。

ストレッチをしたり、ヨガに取り組んだり。

あるいは、楽器の練習をしているとき。

楽譜に記された音符を一つずつ。

感触をたしかめながら、ゆっくりと指を動かし、呼吸と連動させてゆく。

身体を動かしてみると、動きにくい部分に気付く。

呼吸をすることで、呼吸の入りやすさに気付く。

語ることによって、語られていないことに気付く。

語らないことによって、語り得ぬことが語られる。

何かが分かることによって、未だ分かっていないことが分かる。

可視と不可視、可知と不可知。

秩序と無秩序、有と無。

この瞬間に見ていること、感じていることは全てでもなく不変的でもなく、唯一の真理でもない。

数多の可能性の中から何かが選ばれているに過ぎないのかもしれない。

以前、生物学を学んでいた際に「細胞が分裂していくだけでは、大きくなることはできるが、その結果として形を作ることはできない」という一節に出会った。

無限の大きさなるものは「かたち」をなさない。

器の縁がどこまでも広がり続けていくとき、その器というのはもはや「何かに包まれている」イメージから解き放たれて、「開かれながらも閉じた空間」と言えるのではないだろうか。「破れてはいない」という意味で閉じている。

細胞は真逆に「閉じているけれど開いている」という、有限の中に外側との無限の接続可能性を有している。

いずれにおいても、その核心は「空」にあるように思えてくるのです。

「身体を動かす」という極めて日常的な実践を通して。

ゲマインシャフト的文化が一般にそうであるように、東洋文化の理念も形であったと云うことができる。しかるにギリシアにおいては形が客観的に見られ、「概念」を意味するようになり、かくして近代科学と結合されるに至ったのに反し、東洋においては形は主体的に捉えられ、かくして象徴的なものと見られた。形あるものは形なきものの影であり、「形なき形」の思想においてその主体的な見方は徹底した。この思想は我々にとって重要である。

三木清『構想力の論理 第一』

形は形に対して形であり、それぞれの形は独立である。かような形の根底にあってそれらを結び附けるものは近代科学の理念とされる法則のごときもの、何らか客体的に捉えられ得るものでなく、かえって形を超えた形、「形なき形」でなければならぬ。形は主観的なものと客観的なものとの統一であるといっても、構想力の論理はいわゆる主客合一の立場に立つのではなく、かえって主観的・客観的なものを超えたところから考えられるのであり、かくして初めてそれは行為の論理、創造の論理であることができる。

三木清『構想力の論理 第一』

ただ東洋的論理が行為的直観の立場に立つといっても、要するに心境的なものに止まり、その技術は心の技術であり、現実に物に働き掛けて物の形を変じて新しい形を作るという実践に踏み出すことなく、結局観想に終わり易い傾向を有することに注意しなければならぬ。ここにそれが科学及び物の技術の概念によって媒介される必要があるのである。

三木清『構想力の論理 第一』

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