「身体を動かす」という極めて日常的な実践を通して〜無限の大きさを想像すると核心は"空"にあるのではないだろうか〜
身体をゆっくりと動かす時間がとても大切だと感じる今日この頃です。
ストレッチをしたり、ヨガに取り組んだり。
あるいは、楽器の練習をしているとき。
楽譜に記された音符を一つずつ。
感触をたしかめながら、ゆっくりと指を動かし、呼吸と連動させてゆく。
身体を動かしてみると、動きにくい部分に気付く。
呼吸をすることで、呼吸の入りやすさに気付く。
語ることによって、語られていないことに気付く。
語らないことによって、語り得ぬことが語られる。
何かが分かることによって、未だ分かっていないことが分かる。
可視と不可視、可知と不可知。
秩序と無秩序、有と無。
この瞬間に見ていること、感じていることは全てでもなく不変的でもなく、唯一の真理でもない。
数多の可能性の中から何かが選ばれているに過ぎないのかもしれない。
以前、生物学を学んでいた際に「細胞が分裂していくだけでは、大きくなることはできるが、その結果として形を作ることはできない」という一節に出会った。
無限の大きさなるものは「かたち」をなさない。
器の縁がどこまでも広がり続けていくとき、その器というのはもはや「何かに包まれている」イメージから解き放たれて、「開かれながらも閉じた空間」と言えるのではないだろうか。「破れてはいない」という意味で閉じている。
細胞は真逆に「閉じているけれど開いている」という、有限の中に外側との無限の接続可能性を有している。
いずれにおいても、その核心は「空」にあるように思えてくるのです。
「身体を動かす」という極めて日常的な実践を通して。