いつも喜んで生きることは可能だろうか、っていう話です。
いつも喜んで生きていたい、と願うけれど。。。
現実は、なかなか難しいものがあるよね。
てか、そもそも「喜ぶ」って、どういうことなんだろうね?
実は、あんまり深く考えたことがないかも。。。
今日の聖書の言葉。
いつも喜んでいなさい。
テサロニケの信徒への手紙一 5:16 新共同訳
なので、早速、辞書を引いてみた。。。
【よろこぶ】うれしいと思う。そういう気持を態度・動作に現す(by Oxford Languages)
喜ぶ、とは、嬉しい、っていう気持ちなんだねー。
いや、待って。。。
そもそも「嬉しい」って、どういうことなのよ?
【うれしい】物事が自分の望みどおりになって満足であり、喜ばしい。自分にとってよいことが起き、愉快で、楽しい(by デジタル大辞泉)
うむぅ。。。
なんか、ハードルが高くなって来た。。。
物事が自分の望みどおりになって満足であり、人生に良いことばかりが起きて愉快で楽しい、って。。。
そりゃ、いつもそんな状態が続いたら、願ったり叶ったりで、実にスバラシイことだと思うんだけど。。。
現実は、どうだろうね。。。
物事がちっとも望み通りに行かなくって、イライラしたり、あたりちらしたり、ヤケになったり、落ち込んだり、ふさぎ込んだり、いろんな反応をしてしまうよねー。。。
でも、まあ、人生をあきらめてしまうのは、早いよね。。。
だって、自分が確実に認識できている、と言えるのは、せいぜい、いま・この瞬間の前後5分間ぐらいの範囲のことなんだもん。。。
自分の認識って、ともすれば、ながーく、ひろーく、のっぺりしているような、普遍的な印象を持ちやすいけれど。。。
だから、気持ちが暗く悲しくなると、もうね、世界全体が過去・現在・未来に渡って暗くなったみたいに感じてしまうわけなんだけど。。。
でも、ほんとを言ったら、この世界の5分前がどうだったか、だって、何ひとつ確実なことは言えないんだよね。
アリストテレス以来最大の論理学者とされるバートランド・ラッセル(1872-1970)の「世界5分前仮説」によれば、この世界は5分前に始まったと考えたとしても、論理学ではそれを肯定も否定もできないんだって。。。
これって、一見すると因果律の否定のように見えるから、そんなこと言っちゃったら論理学が崩壊するんじゃない?って心配になる。。。
だけど、ラッセルの考え方に照らして言えることは、5分前の自分と、現在の自分と、5分後の自分について、気分や気持ちや因果や論理の連続性が「ある」って考えてもOKだし、逆に、連続性は「ない」って考えてもOKだ、ってことになるんだよね。
果たして、世界が5分前に出来たのか、紀元前4004年10月22日の夕暮れに出来たのか、137億年前に出来たのか、それは、なんとも言えないんだけれど。。。
でも、いまの自分の気持ちや気分が、5分前の自分に支配されなきゃならない必然性は、そもそもないし、また、いまの自分の気持ちや気分を、5分後の自分まで引きずって行かなきゃならない必然性も、ないんだよね。
その必然性は、ただ、必然性がある、って感じている、自分のアタマのなかだけに、あるんだ。
5分前の自分の気持ちや気分っていうのは。。。考えてみたら、そりゃあ、ヒドイものだ。。。
だけど、それは、それとして、置いておこう。
だって、別に、5分前の自分に、いまの自分が縛られなきゃいけないという、自分への義理があるわけじゃあ、ない。
なので、アタマから一歩外に出て、虚心坦懐に聖書が言っているコトバに耳を傾けてみよう。
今日の聖書の言葉も、こう言ってるし。。。
いつも喜んでいなさい
もちろん、喜んでいる気分を、5分後の自分にちゃんとバトンタッチできるかどうかも、わからない。
5分後の世界に何が起きるかなんて「神」しか知らないんだから。。。
だからこそ、5分後を心配しても、しょうがないよね。。。
いま・この瞬間の自分は、いま・この瞬間にいるだけであって、ほんとのところは、いつまでたっても5分後にはたどりつけないんじゃないのかな、と思う。
だって、5分時計が進むと、その先にもうすでに未知の5分が出来ているわけでしょ?
なので、自分の掌中にある、いま・この瞬間を「喜び」で満たそう。
いつも喜んでいなさい
生きているなかで、喜びの材料は、探せばけっこう、いろいろあるし。。。
それに、どうしても行き詰ったら、聖書という宝箱をひらけば、こういうやつがザクザク出て来るし。。。
主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
テモテへの手紙二 4:18 新共同訳
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