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ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(1880)/大人になって味わう達成感と、子ども時代に経験したい神聖な思い出の話

10代の頃から読みたい、と思っていたものの、なかなか手が出なかった「カラマーゾフの兄弟」を読み切った。ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」を読み切った時の達成感もよかったけど、今回は大変苦手にしていたロシア文学を、だったので、感激もひとしお。1日中いい気分で過ごした。
大人になってから感じる達成感は貴重だ、というけれど、案外私は感じている。ついこの間は転職して初めてサービスのリリースを迎え、自分が構築したカスタマーサポートがよく回っていることで達成感を味わったし、そしていいジュエリーや小物、かばんなどを品定めして、何かしらの理由をつけて購入する瞬間もちょっとした達成感。次は2年越しで欲しいなあと思っていたサンダルをいよいよ買うと決めていて、色や形をもう少し迷ってお店にいき、手にいれた暁にその気持ちを味わいたいと思っている。

とはいえ娘の成長をみていると、できなかったことができるようになる、達成感を味わえるスパンがかなり短い。たとえば3週間前にはまっすぐ前に進むのがやっとだった補助輪付での自転車走行が、今日はカーブをひとりで曲がれるようになった。そんなことが彼女の日常には溢れていて~まるが上手に描けるようになったと思ったら今度はりんごが描けるようになった~、また身長もぐんぐん伸びるからついこの間まで手が届かなった場所に、数か月後にリーチすることができたり、そんな風に「できなかったことができた」で日々が埋められていくというのはなんとも幸せなこと。そしてそれが最近の子育てキーワードとして頻出する「自己肯定感」の源なんだと思う。

一方で今日読んだ「カラマーゾフの兄弟」のエピローグにあったこの一文、心底そうだなあとも思った。

何かよい思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。きみたちは、きみたちの教育についていろんな話を聞かされているはずですけど、子どものときから大事にしてきたすばらしい神聖な思い出、もしかするとそれこそが、いちばんよい教育なのかもしれません。
 自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

ここでいう「神聖な思い出」というのは、傷つけられた父親のために必死で傷つけた相手に抗議するような友達、そして一時はその子に石をぶつけるようないじめをしたのに、その後許し合い、仲良くなったことに関する思い出、の意。そういった出来事の記憶が大人になってから逆境の時に自分を救ってくれる、というのは、本当にそうだなあと思う。
自分の住んでいる世界を信用できること、たとえば通り魔のような犯罪が起きたとして、たいていの人はそんなことしないと思う、か、通り魔を起こすような人は世の中にごろごろいると思う、かで、それはずいぶんと生きやすさが違う。

自分を肯定することも大事だけど、他人を信頼することも大事だよなあ、むしろ世の中に対する信用感の方が生きやすさには直結するかも?
そんなことを考えた1日だった。





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