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読書|『秋の図書室』 この秋に読むべき3冊❶〜❸

❶ 『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』 斎藤真理子著 文・森野水茎 (793字)

 コロナ禍に晒されている間、御多分に洩れず部屋で動画を見る時間が増えた。初めて動画配信サイトを契約し、友人の勧める韓国ドラマを見る機会を得た。その時に韓国語の音の響きに驚いた。それまではニュース番組でアナウンサーが発する強い調子の韓国語しか聞いたことがなかったので、俳優の口から語られる表現豊かな音に魅了された。

 元々韓国文学は好きで特にハン・ガン氏の小説は読んでいたが、この本の著者である斎藤真理子氏は韓国文学の翻訳者であり『別れを告げない』を翻訳している。

 著者は韓国語(=朝鮮語)を学び始めたきっかけの中で、言葉のしくみや魅力を語り、ハングル誕生とその歴史をたどる。個人的に一番関心のあったハングルの「音を形にする」工程が興味深く、母音のパーツの成り立ちの基本が東洋哲学の天地陰陽説を基本としているところから唸ってしまった。ハングルは視覚芸術のようなデザイン性があると思っていたが、理念で出来上がっている文字ということを知っただけでも感動した。加えて、作った人物が世宗大王だと名前がわかっているのも稀有なことではないだろうか。

 一方で、韓国語を学ぶということは日本と韓国の間の歴史を学ぶということでもあり、植民地以降の流れを追いながら、また韓国の民主化までに起きた痛ましい国内の歴史も含めて、韓国の人々にとっての「言葉」「文字」「詩」とは何かということを、翻訳者である著者が経験を踏まえながら語ることにより、読者は様々な「揺れ」と「あいだ」を意識するようになるだろう。

 翻訳という仕事は言葉の揺れを掬い、言葉のあいだに立つ。「間、閒:あいだ」とは、門が閉じても月光がもれる様からすきまの意味を表すと漢和辞典に記されているが、微かな光を掬い取り、決して閉じることのない術を知る著者の言葉は読者に新しい視界を与えてくれる。

 小林沙織氏による装画と本文イラストもリズムのある形が心地良い。

❷ 『短編画廊 絵から生まれた17の物語』 ローレンス・ブロック編 
文・小林麻衣子 (887字)

 アメリカを代表する画家のひとり、エドワード・ホッパーの絵は、シンプルな色彩と突き離したような印象の不思議な構図が多い。また描かれる人物の表情はかたく感情が読み取れない。   

 その抑圧された感じがかえって見る者を刺激するのか、彼の絵は時としてパロディで大喜利のように使われたり、オマージュとして映画の中で絵にそっくりなシーンが出てきたりする。去年から今年にかけて大分、京都、東京を巡回していたMUCA展でもホッパーの『ナイトホークス』を元にバンクシーが制作した『Are You Using That Chair?』が展示されていた。

    これだけ多分野にインスピレーションを与えているホッパー作品だが、今回おすすめしたいのは芸術と読書の秋が一度に楽しめる『短編画廊 絵から生まれた17の物語』(ローレンス・ブロック編 ハーパーBOOKS)という短編集だ。17人の作家がそれぞれホッパーの作品を題材に小説を描くというユニークな試みをしている。孤独という言葉で語られがちなホッパー作品も、この本の中ではサイコ系、感動系、ハードボイルド系、ファンタジー系などと幅広い。絵の中を飛び出した登場人物たちが、血を通わせ、それぞれの生活を歩んでいる。

 私が特に好きだったのはホッパーの『夜のオフィス』を題材にしたウォーレン・ムーアのその名も『夜のオフィスで』という作品。両親の反対を押し切り田舎町からニューヨークに飛び込んだマーガレットは苦労して弁護士事務所で働き始めるが、突然彼女の人生は一転する。虚と実の境目が滑らかに描かれ、悲しいけれど清々しい話だ。

 他にも、ある夫婦の恐ろしい“仕事”を描いたスティーブン・キングの『音楽室』や、よそ見をしているあいだに、いつの間にかピエロが私たちのテラス席に座っていた。という魅惑的な書き出しのロバート・オーレン・バトラー著の『宵の青』等が面白かった。

 題材になった全ての作品がフルカラーで掲載されているため、自分ならどういった物語を創造するか考えてみるのも楽しいと思う。小説家のお題に応える手腕と、改めてホッパー作品の懐の深さを感じる一冊だ。

❸ 『こころ』 夏目漱石著 文・阿壇幸之 (814字)

 今回、私が紹介したいのは夏目漱石の『こころ』である。

 私がこの作品を読んだのは、大学生の頃、自分で小説を書くようになり、名著と言われるものを漁っているうちに出会った。もちろん、話の筋は知っていた。高校の教科書にも載っていたし、とある大学模試の試験問題でも出題されていた。しかし、それは一部分が切り取られていたもので、話の起承転結を理解することができたのは二十歳を過ぎてからだった。

 既にご承知のことかもしれないが、『こころ』は三部で構成されている。
『上 先生と私』
『中 両親と私』
『下 先生と遺書』

 ここで取り上げたいのは第二部のある一部分である。先生が主人公の「私」と話している中で、執拗に「私」の田舎の兄弟や親戚を尋ねている場面がある。「私」が田舎者だから悪い人はいない旨を伝えると、先生は以下のように否定する。

田舎者は都会のものよりかえって悪いくらいなものです。(中略)。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです。

夏目漱石『こころ 坊ちゃん』文春文庫、1996年(222P)

 漱石の作品を通じて描かれているのは都会と田舎の対比である。もっと正確に言えば、「都会人」と「田舎人」の対比である。漱石の作品の中で、「田舎人」は近代的に洗練されていない下卑た人間としてよく描かれている。これは、漱石自身が愛媛の松山中学校や熊本の第五高等学校に赴任した際の経験によるものだと考えられる。

 漱石の表現は、いくらか、今となっては適さないかもしれない。しかし、漱石が指摘する対比が本質的に的を得て、さらに言えば、現在においても首肯せざるを得ない状況にあるように私は考える。そして、それが故に漱石の作品が100年以上愛されているのだと思う。

 一度読んだことある方は再読を、まだ読まれていない方はぜひ一読いただきたい作品である。



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