[日日月月]8月31日、子どものやさしさと強さに触れた出来事
以前、息子の流した涙に感動したと、少し書いた。
人の親なら誰しもわかりそうなものだが、子どもという存在は鏡のようで、親が学ぶことのほうが多い。
NVC(非暴力コミュニケーション)を実践し始めてから、うちの7歳の子どもとは、世の中の常識や理屈よりも、感情と感情で話すように心がけている。
そんな会話を通して、彼から美しい感情を何度も受け取った。
彼は、やさしさの固まりなのだ。
先日、こんなことがあった。
いわゆる「森の幼稚園」で3年間過ごし、問題や解決法を自分で見つけ、自分で実行し、自分で検証することに日々触れてきた彼は、卒園後、「自分で決めることに疲れた」と、見事な反動を見せた。
結果、公立小学校に入学し、「先生がすべて決める」という世間一般のルールに、気持ちよく順応していた。
しかし、夏休みが過ぎ、2学期に入ると、変化が見られた。
「先生が決めるのが、イヤだ」と言い始めたのだ。
公立の学校の、ヒエラルキー/トップダウンのあり方の問題点に、ついに気づいたのか。根っからの反体制的な父である私は息子の言葉に嬉々としたが、どうやら、そういうわけではなさそうだった。
「先生が決める目標が難しすぎる」というのだ。
「ああ、そっちのほうか」とモードを正した。目標とはおそらく、授業中に問題の何ページまで終わらせましょう、といった類なのだろう。「それが難しくてできないの?」と私は聞いた。
「ううん、僕はだいたいできるよ」と息子は答える。
「え?」と思わず声が出た。
じゃあ、何が問題なのか。
話はこうだ。自分はその目標をだいたい達成できるが、クラスのなかに、できない子がいる。その子が目標を達成できず、悲しんでいる様子を見るのが、つらいのだという。
加えて、その子が目標を達成できるまで、クラスのみんなは待たないといけない。みんなは焦れて、怒ったり、いじめるようなことをしたりして、その子がますます悲しんでしまう。その状況に自分がいるのが、さらにつらいのだという。
「だから僕は、もう学校に行きたくない」
返す言葉がなかった。
自分ではなく、誰かのことを、こんなに思いやることができる人間がいるのか。
彼には、誰かと争うという発想がない。誰かが負けてしまうのがイヤだからだ。だからこの状況では、クラスのみんなに「やめろよ」と訴えるのはかなり難しい選択肢になると想像できる。
だから「学校に行かない」という選択肢は、彼が導き出した、もっとも合理的な手段だったのだろう。
ならば「不登校」「登校拒否」という評価を与えて、彼の選択や感情を無下に否定することはできないだろう。しかし……。
「ねえ、悲しい気持ちはわかったよ。すごくつらい思いをしたんだね? 学校に行かなければ、そういう思いをしなくて済む、ということもよくわかった。ただ、それで自分の気持ちは落ち着いても、その子のことは、何も変わらないと思うんだ。どう思う?」
息子ははっとした様子を見せて、無言で視線を外した。たった数秒の間だったかもしれないが、さまざまな思いが彼のなかを駆けめぐったのが、見えた気がした。
彼はきっと、また強くなる。
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