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眼という『鏡』。

「わたしたちの眼、このものは一個の無意識の詩人であると同時に、一個の論理学者でもある。これは今や諸事物が面としてではなく、物体としてあらわれる鏡である。さまざまな事物が、存在し持続するものとして、わたしたちに属さない無縁なものとして、わたしたちの権力に並ぶ権力としてそのものの上にあらわれる鏡なのである。」
(『生成の無垢』ニーチェ)

眼というものは鏡であると、ニーチェはいっている。主体が事物を認識するとは、眼という鏡がその事物を映しとったというだけのことだ。「主体が世界を認識する」と常識的に考えているならば、その思い込みは、この時点で、ニーチェによって崩壊させられている。なぜなら、ニーチェは、そもそもの「主体」という概念を崩壊させたのだから。「認識」することができないものは、もはや「主体」ではないだろう。人間が「権力」をもっているとするならば、それは他の理由による。

眼が鏡であるとすると、人は世界を認識しているのではなく、世界をただ映しとっているだけであることになる。しかし、人々は、他者と異なる自分独自の世界を、その鏡に映しとっていることも間違いない。その違いこそが、「アイデンティティ」と呼ばれるものなのだ。

『思考の用語辞典』(ちくま学芸文庫、中山元)参照。



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