コンシャスのバイアス、アンコンシャスなバイアス
テラスから見上げる7月の空は、私が選んだ布地の色によく似ている。
私たちの「置かれている」アスファルトのそこはちょうど影が差し込んでいるせいで時折すり抜ける風が心地いい。
…が、セメントの上に重ねられた私の足はもう限界であった。
これが正座でなければ気持ち良いのに…
自分の膝から下に意識がなるべく行かないよう、とりとめないことに思いを巡らせていると、授業終了のチャイムが校内の静寂を突き破った。
すると、私の傍らでうつむいたまま鼻をすすり上げていたショウコは「もうやだ」と呟いて小さな嗚咽を漏らす。
私はうなだれているショウコをのぞき込み「ゴメンね」を繰り返す。
「たねちゃんだって悪くないよ。私たちは悪くない」
ショウコは手の甲で涙を拭う。
「何でこうなっちゃったんだろうね…」
私はまたシルクのように澄んだ空を見上げる。
あぁ、足がもげそうなくらい痛い。
どうせならもげてくれ。
そしたら、私の足はこんな茶番の道具ではないと叫べるのに。
その年、中学校に入学した私たちは極端に人数が少ないせいで、学年が二クラス削減され、五クラス編成となった。
授業の効率化により、家庭科や技術工作などの授業は週に一回、二時間。
しかも二クラス合同で組まれていた。
いくら子供の人数が少ないとはいえ、合同となると家庭科の実習室はミシンの数や裁縫器具が足りず、班ごとの進捗をうまく調整し合いながら廻す必要があった。
班の構成は二クラスを混ぜて振り分けられていて、私は仲良しのショウコや隣のクラスのユリたち合わせて六人。
夏休みを挟んで秋までに『バイアススカートを作る』のが課題なのだが、班で作業を進めて行くため、得意不得意の差が大きく響く。
「ねえ、今日中に全員が裁断を終わらせないと次のミシンの順番が取れなくなっちゃうよね?」
「もしそうなったら居残りだから、頑張って済まそうね」
班長のユリは裁縫が得意なのか、すでに次の段階へ進んでいて、他のメンバーに声をかける。
「わ、私が一番進みが遅い、よね…」
私はみんなの顔を見回しながら侘びる。
「たねちゃん、そろそろ裁断できそう?」
ユリはチャコペンの跡だらけの私の布地を、自分の席から首を伸ばしてのぞく。
それは青い空に飛行機雲が交錯しているよう、ともいえるが、どう見てもお粗末なだけである。
引いたチャコペンの線に沿って裁断した後、さらにそれらを合わせて縫い上げて行くのだが、私はまだ布地のカットに進めずにいた。
「だって、コワいんだもん」
人数オーバーな状態で作業台を使っているせいで、布地の全体図がどうなっているのかよくわからない。
しかも、何がバイアスなのかもわかってないらしい自分が、よりによってなぜこんな布目の詰んだわかりづらい生地を選んだのか。
確信のないまま、ハサミを入れていいはずがない。
私はショウコに自分の引いたチャコペンの線を確かめてもらいながら、それでも、そこにハサミを入れるのを躊躇していた。
「切って大丈夫だよ、たねちゃん」
ショウコが励ます。
「私が代わりに切ってあげようか?」
「え?ホント?」
ユリが助け舟を出して席を立つ。
と、そこへ各班の様子を見廻っていた辺見先生が、私たちの席に近づいて来た。
「ちょっと。さっきからずっと、この班は騒がしいんだけど」
「何?まだ裁断できないの?」
ユリが私の傍らに立っていたせいで、この班の進行を妨げている犯人が私であることはすぐにバレた。
「たねちゃんの代わりに私がカットしてあげようと思って」
上目遣いに言うユリに、先生は微かに口元を緩ませた。
「優しいのはいいけど、ちゃんと自分でやらせてあげて」
そう言ってユリから私へ視線を移した瞬間、先生の顔は中国伝統芸能の「変面」のようにまったく違う表情になった。
「人に頼ってちゃ意味ないのよ」
私はおどおどとうなづくいた。
「で、他のみんなはちゃんと、進んでるわね?」
辺見先生は他の生徒たちの手元を一人ひとり確かめながらぐるりと見廻ると、ユリのところへまた戻り、ひと言ふた言笑顔で言葉を交わして私たちの班から離れて行った。
「ゴメンね、たねちゃん」
ユリはそう言うと自分の席に戻った。
大丈夫、と、私は首を振って答えた。
「辺見先生って、何かコワいね」
ショウコが私に顔を寄せて小声で囁いた。
辺見先生はユリたちの副担任で当時、恐らく30才手前の、この中学ではダントツに若い教諭で、そしてその容貌も女性教諭の中で飛びぬけていた。
なので、最初のうちは男子生徒にものすごく人気で、いつも先生の周りには数人の取り巻きがいたのだが、二か月も経たないうちに誰もいなくなった。
辺見先生は、国語の教科と合わせて家庭科の授業も受け持っていたため、私たちはほぼ毎日彼女の授業を受ける。
なので、その理由は私たちも何となく察していた。
「たねちゃん、どう?出来た?」
ユリがまた声をかける。
「・・・」
私はようやく裁断した布地を型紙と合わせてみたり、教科書の図解と照らし合わせたりするのだが、何かがおかしいと気づいた。
この二時間近くの間に、私は何度冷や汗が吹き出しただろう。
もうクタクタだった。
私の焦る様子に、ユリはまたそばに来て手元をのぞき込む。
「チャコペン通りにカット出来たんだよね?」
「うん、そのはずなんだけど…」
ショウコも私のソレを自分のと比べながら、ユリと一緒に首を傾げる。
「これ、もしかして裏側じゃない?」
「あ、ホントだ」
「型紙と反対になってる」
ユリとショウコの言葉に冷や汗はさらに増す。
「ちょっと、そこ!また騒いでる?」
声に反応して振り返ると辺見先生がいつの間にか立っている。
「先生、たねちゃんの…」
ユリが説明しようとするのを遮って、先生は私の布地をつまみ上げてしばらく眺める。
「何をやってるの」
私は顔を上げられず、教科書の図解写真を見つめる。
「私語が多すぎるから、こんなおかしなことになったんじゃないの?」
「ねえ、これどうするの?」
先生はその‘’おかしな切れ端‘’を差し出して私をじっと見つめる。
「・・・」
聞きたいのはこちらである。
答えようがないではないか。
どうしてそうなったのかさえ、私にはわからないのだから。
「何で黙るの?さっきまで一番お喋りしてたくせに」
「先生、私たちうるさかったかもしれないけど、私語をしてたわけじゃないです」
ショウコが思わず言う。
「は?自覚ないの?」
キッと睨まれたその迫力に黙り込んでショウコはうつむく。
先生の声に他の生徒たちもみんな静まり返った。
「・・・」
「もう、いいわ」
先生は私の布切れを机に戻すとため息をついた。
「あなたたち二人、教室を出なさい」
私とショウコを見据えて言うと先生は廊下とは反対側の、テラスに面したサッシに向かってツカツカ歩いて行った。
「二人、こっちへ来て。ここで正座してなさい」
サッシを開けて私たちを促す。
「早くいらっしゃい!」
固まっている私とショウコに先生はまた語気を上げた。
白い給食着を来た生徒たちが楽しそうな笑い声を上げて渡り廊下を次々に通って行くのが見える。
風に乗ってふわっと醤油と出汁の香りが漂う。
大きく鼻をすすり上げてショウコが顔を上げ、お腹空いたと呟く。
「今週、給食当番なんだよね」
クラスの仲間たちが準備に取り掛かる様子が思い浮かぶ。
「今頃、私たちの噂してるね、教室のみんな」
「うん」
そのとき、後ろで家庭科教室のサッシがガラガラと開いた音に反射して私たちはビクッと身体を硬直させた。
「・・・」
私は振り向くことも出来ずうつむいたまま。
白いセメントのその視界へ、辺見先生のピンクの室内履きが飛び込んでくる。
濃いピンクで、フリルの飾りとかかとの高いオシャレなサンダルは私たちの真正面で止まる。
「反省できた?」
先生の声からは温度も何も伝わってこない。
ここはしおらしく「はい」と言えば放免してもらえるのだろうと、私が口を開く一瞬先に、ショウコが言葉を発した。
「私たち、悪くありません」
ショウコちゃーーんッ!!!
私は心の中で叫びながら、今日一番の冷汗が全身に噴き出るのを感じた。
・・・
「あぁ、そう」
しばらくの沈黙のあと、先生の冷たい声が私たちの頭の上に漏れる。
二つのピンクのサンダルは片方がもう片方側に寄っかかっている。
「謝るまで帰すつもりはないんだけど」
ため息まじりの声がまるで雪女の吐息のようだ。
この息をまともに吹きかけられたら、夏の陽射しの下でも私たちは凍死するんじゃないだろうか。
その場合、私たちは不審死として扱われるのだろうか。
この状況に、私は何でこんなことを考えているのだろう。
「どうなの⁉」
荒げた語気にショウコはまた嗚咽を上げ始めた。
「ごめんなさい」
ショウコは泣きじゃくりながら答えた。
「あなたはどうなの」
ピンクサンダルのつま先が私へ向く。
「すみませんでした」
「何が?何が、すみませんなの?」
無気力に侘びる私にさらに雪女の尋問が続く。
「うるさくして、すみませんでした」
「違うでしょ」
「・・・」
「私語ばかりして、私はみんなの邪魔をしました、じゃないの?」
「…はい、そうです」
しょんぼり答える私に続いて、ショウコの嗚咽はしゃくりをあげて強くなる。
「全然、反省の色が見えないんだけど」
反省の色とは何色なんだろう。
色って、態度とか、様子とか?
先生は私に何を言いたいのか必死で考えた。
そうか、私がショウコのように泣かないから、気が済まないのかな。
泣いたら、許してもらえるのかな。
でも、泣けるほどの感情が込み上げてこないのはどうしてなのか、自分でもわからなかった。
「先生、もう教室に戻らせて下さい」
泣きじゃくりながらショウコが懇願した。
「・・・」
足のしびれは限界をとうに越えて、膝から下の感覚が麻痺していたが、それ以上にショウコの鳴き声が胸の中いっぱいに広がってはちきれそうで辛かった。
30分近く続いた正座のせいで、立ち上がれなかった。
私はまるで生まれたての仔馬のよう。
どうすれば足の裏が地面にちゃんと着けるのかすらもわからない。
泣きはらした目のショウコが肩を貸してくれて、私は彼女にしがみつきながらワナワナして定まらないつま先をたてようともがく。
「ショウコちゃんは正座、平気なんだね、すごい」
「うん、小さいときから茶道やってるから」
「ねえ、私、ちゃんと立ってる?」
電流が足に走るたび悲鳴をあげる私を、ショウコは真っ赤に腫れた眼を細めて笑った。
レイコの肩につかまりながら、ヨタヨタとたどり着いた教室の扉を開けた。
クラスのみんなはシャッターを切った瞬間のように、いっせいに私たちを見た。
「おい、大丈夫か?」
級長のコウセイ君が寄ってきて声をかけてくれた。
「話は女子から聞いたよ、ひでぇな」
コウセイ君の言うことには、授業が終わって教室へ戻るとすぐ、一連を見ていた私たちと同じ班の子が事の次第を話し、それを聞いたみんなは口々に抗議し始めた。
そしてコウセイ君を始めとする有志5~6人で職員室へ言いつけに行ったらしい。
そこには辺見先生のクラス担任も居合わせたので、一緒に聞いてもらった、ということだった。
私はみんなの行動に驚いたり感動したりしているうちに、さっきまでの悔しさはどこかに吹き飛んでいた。
また嗚咽し始めたショウコに、数人の女子が寄って来て、彼女の背中をさすったり、「大丈夫?」と声をかけたりしていた。
でも、その嗚咽が今度はうれし泣きだということはショウコの表情から見て取れた。
昼食休憩が終わっても、担任からこの件に関する説明は一切なく、何事もなかったかのように午後の授業は始められた。
そうしてこの件はフェイドアウト。
…かと思いきや、それから数日後に辺見先生とユリのクラスで、ある事件が起こった。
辺見先生の授業に半数以上の生徒がいないという騒動。
どうやら申し合わせた生徒たちが授業をボイコットしたらしかった。
ユリはどっち側だったんだろう。
どんな経緯があったのか、もう覚えていないけれど「あぁやっぱり」と思ったことは記憶に残っている。
全身イヤな汗をかきながら手こずったのが、『バイアス仕立て』のスカートだったからなのか、そうじゃないのか。
最近、よく見聞きする『アンコンシャスバイアス』に反応して、このエピソードが思い出される。
私の脳内でニューロンが反応する理由は何なのか。
まったくアンコンシャスである。
ちなみに『アンコンシャスバイアス』おススメ動画
※視聴時間2分46秒
なぜか声に出して言いたくなる、まさしくアンコンシャス!w
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では、また。