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"ネット上に作られた自分がリアルを侵食する"藤原智美「スマホ断食」

読書メモ#19です。今回はネット時代が実社会へもたらす弊害を説いた藤原智美さん著の「スマホ断食」のメモです。

タイトルから自分はデジタルデトックス的な(軽めな)内容を期待して手にとったのですが、内容はどちらかというとインターネットがどのように社会を変え、個人に影響を及ぼしていってしまったのかという大きなテーマをダイナミックに語った本でした。

自分自身はIT業界に身を置いているのもあり、こういったITへの批判的な意見は普段生活している中ではなかなか耳に入りづらいものなのですが、この本の内容は私のようにITを駆使しながらサービスを提供しているビジネスパーソンも一考し、心に留めておくべき考え方のように感じます。

デジタル嫌いの高年齢な論者にありがちな半分感情論による安易なデジタル批判や、あるいはSNSが精神的なダメージやうつを助長するといった「もう知ってるよ」というような議論に留まったものではなく、非常に価値のある1冊に感じました。

スマホによって「個の時間」が消された時代

携帯電話の普及によって人は1日中ネットに接続された状態が当たり前となり、スマホが一気にそのつながりを強固なものとしました。

Twitter、Facebook、Instagram、、SNSが人々を夢中にし、スマホがその依存度を高めました。

スマホのカメラで写真や動画を撮り、それらはスマホ画面上の「シェア」アイコンをタップすれば簡単に友人に、そして全世界に公開することが可能です。

シェアしたものは早いものでは数秒の間にコメントや「いいね!」が届きます。

ふと見上げた空にかかっていた虹、ビルの隙間に落ちていく夕日。

あるいは友人たちとはしゃいでいる写真、フォトジェニックなスポット、スイーツ、、、

我々は無意識のうちにそのような「ネットに受けそうなネタ」を見つけてはSNSにすぐ投稿してしまいます。

しかし十数年前、SNSがなかった時代にはそのように身の回りに起きた素敵な出来事(それが偶然であれ計画的であれ)はその場に居合わせていない全世界の人々へ向けて公開しようなどという発想はなかったはずです。

それによってその場で発生した出来事は、その場(もしかしたら個人)の中でゆっくりと噛み砕かれ、消化され、記憶の中に沈殿していき、ときには思索にふけるような「個の時間」があったはずです。

しかし、現在ではその場で起こった感動的な出来事はすぐにスマホで切り取られ、いとも簡単に世界へシェアされてしまいます。

それによって筆者曰く「個の時間」がなくなってしまったと言います。
その場で発生したアナログ世界の出来事はデジタル化されシェアをした時点で消えてしまい、個人個人の心に留まることができない、と言います。


ミニマリストが豊かな生活様式であるとは限らない

このような「デジタル化された時点で物事の本質が抜け落ちてしまう」という提言が筆者の主張の根幹にあります。

そしてスマホがその文化の波及の一翼を担っていると言っても過言ではないミニマリストの思想にもメスが入れられます。

スマホは身の回りのあらゆるものをデジタル化して、手のひらに収めて携帯できるようにしました。

電卓や写真アルバムはもちろん、裁断してスキャンすればすべての本は電子化され、部屋の一角を占領していた本棚もなくなり部屋が様変わりすることでしょう。

非常に雑な説明をすると、「フィジカルな物質は必要最低限にとどめることで思考の幅が広がり、ストレスから開放されて心が豊かになる」というのがミニマリストの考え方です。

確かにものがなくなることは視界のノイズがなくなり、整然とした部屋で心にかかる雑音も軽減されることは間違いないと思われます。

しかし、フィジカルな物質をなくすことで豊かになるのでしょうか?

本当に物質は心のノイズにしかならないものなのでしょうか?

筆者はこの「もの」排除の流れを非常に危惧しています。
ものには、データ化できない様々な情報が内包されています。

例えば本であれば表紙の手触り感やページをめくる感触、何度も読んで汚くなってしまったページの端っこや折れ、破れ、、そのような人間の五感を通して得られる情報は「もの」があることによってのみ表出する現象です。

データ化をすればすなわちリアル世界の「もの」と同じものが出来上がるとは言い切れません。


ネット上に作られた自分がリアルを侵食する

さて、我々はSNSに日々投稿し、ネット上に自分の情報を積極的にアップロードしています。

そうでなくても、スマホのサービスを利用すればその使用履歴や頻度は年齢や性別、所在地などの個人情報と紐付けられてサービスを提供している企業へ漏れなく吸い上げれられています。

もっと言えばTポイントカードや楽天ポイントカードによって、例え個人がネットに繋がっていない状態でも決済情報はネット世界に吸い上げられています。

現代の生活に必要不可欠なサービスの恩恵を預かるには、個人情報を無尽蔵に吸い上げられることからは逃れるすべはなく双方はトレードオフの関係にあると言えます。

そして言うまでもなくこれらの情報を企業が活用し、サービスの開発や宣伝広告に利用します。
そのようなネット広告を出す人の話を聞くと、YoutubeやFacebookに広告を出す際には非常に詳細な顧客のターゲッティングが可能になっているといい、それだけ個人の情報は企業側に筒抜けとなって集約されているという事実があります。

サービスを提供する企業は、集約した情報を分析し、非常に細かく正確な個人像を形成し、そこからそのユーザーの趣味嗜好、行動予想、将来設計から性的嗜好や政治的思想までを特定することもできているはずです。

そこまでくるともはや我々が知らないうちに「ネット上のもうひとりの自分」が形成されていると言えます。そして情報を集めた側は、それらを駆使しながら新たなサービスや広告展開を仕掛けていきます。

さらに、情報を収集しているのは企業だけでなく、国家も同じです。
中国で個人がスコア化されているといった事例が顕著ですが、似た動きは日本を含め今後世界中に広がっていくことは避けられないでしょう。

このように「ネット上に知らぬ間に形成されていた自分」がリアルな個人の生活に大きな影響を及ぼしている時代になっています。

しかし、本当に「ネット上の自分」はリアルな自分を正確に投影したものなのでしょうか。

これは先のミニマリストの話と同様で、やはりデジタル化、データ化には限界があり、非常に複雑怪奇な「リアルな個人」の再現は不可能でしょう。

吸い上げられる情報はあくまでも数値化できるようなデータであり、それらを吐き出している生命としての個人に内在する本質はトレース不可能なはずです。

しかし問題はそのような事実は誰もが理解できるものであるにも関わらず、ネット上の個人はその個人と同様に扱われてしまわれているということです。というか、自分が無自覚にそのようにデータを扱っていたことを思い知らされました。

本来はある個人の1側面を切り取ったにすぎない情報が独り歩きして、それがリアルな生活にも染み出し、影響を与える時代にあります。

この事実はサービスを利用する側はもちろんのこと、サービスを提供する側も十分把握して置かなければならないものであり、自分としてもはっとさせられた内容でした。


感想:誠実性を欠いた企業が淘汰されていく時代

この本の内容を主催している読書会で紹介した際、他の参加者へ向けて「豊かな生活と引き換えに日々情報を取られ続けている現状に対して、どのように向き合うべきか」という議題を投げかけました。

すると他の参加者から(言葉は違いますが要約すると)

そもそも生活が豊かになっていると思えない。企業が利潤を追求する以上、吸い上げられた情報は企業の利益拡大を第一目的として使われ、個人の豊かさや価値はどんどんないがしろにされるような世の中になるはずだ。

という意見をいただきました。

実際現状そのような側面もあるのは事実なため、逆に情報を利用しながらサービスを作る側にいて、この仕事に希望を持っている私にとっては非常に耳の痛い意見でした。

しかし、私自身は将来的にはこのように企業が単純な利潤目的のためにユーザーの成功や幸福をないがしろにするようなサービスを提供したり広告を行うような企業は淘汰されていくように感じます。
言い方を変えれば、利潤と引き換えにユーザーへ何かしらの不利益や不幸を与えざるを得ないような類のビジネスは(それが故意かどうかに関わらず)今後生存していくことが極めて困難な、ある面では非常に残酷な時代が到来すると思います。

これは理想論ではなく、構造上そうならざるを得ないと考えています。

情報を吸い上げられている個人が企業を恐れているのと同じように、企業側も個人を恐れている時代です。企業側にいる人間として、そのことを日々実感していました。

現在では誰もが自分の意見や考えを一瞬で世界へ発信できる時代になりました。前職のメーカーではAmazonレビューに対して1つ1つ役員レベルの人まで出てきて対策を考えていました。

さらにはYoutuberのレビュー動画はくまなくチェックされ、Twitterの投稿もサーチ機能によって集積され、分析、対策を迫られていました。

企業は常に小さな個人の一挙手一投足を気にしています。
中には個人で大企業にまさる発信力を持つことも珍しくない時代になりました。

そのような時代において、企業側が大規模な予算を費やして発信するイメージ戦略や広告なんかよりも、多くの個人からインスタやYouTubeで発信される情報から形成される世間のイメージや雰囲気のほうに消費者は流れていきます。

企業にとってブランドイメージの失墜は最も恐れるべきことの一つであり、(例え短期的な利潤の追求を手放したとしても)それを防ぐことは企業として脊髄反射的に行われます。
一度没落したイメージや信頼関係の再構築には長い時間と膨大なコストがかかる上に、それらをかけても元通りになるとは限らないことを企業は嫌というほど自覚しています。

アプリでバグが多発すればすぐに告発され、使いにくければ苦情を全世界に発信され、カスタマーサポートの対応が悪ければその内容を録音されて公開されるリスクもはらんでいます。

様々な便利なサービス、アプリが世の中に溢れている現代に置いては、世代を問わずデジタルと個人の尊厳へのリテラシーが高くなっており常に監視の目にさらされています。

このような時代においては、決して綺麗事などでなく、誠実でいる姿勢こそが企業の生き残りをかけた生存戦略の大動脈になっています。

もし少しでも不誠実な姿勢を見せた途端にあっという間にレースから除外され、国内外の競合にユーザーが取られてしまうような時代がすぐそこまで来ているように感じます。

それは顧客獲得の面にとどまらず、人材採用などにも影響を与えることでしょう。
不誠実な体質の企業に対しては優秀な人材が集まらず、しっかりと社会や個人と向き合う姿勢を見せる企業との二極化は様々な面からより顕著になることでしょう。

さらには昨今はブロックチェーン技術を応用した、従来型のピラミッド構造、中央集権的な構造とは異なった独立した個人によるネットワークを駆使した新しい企業のかたちが模索されており、そういった動きからも「企業 vs 個人」という競合構造は今後様々なかたちで表出してくることが予想され、企業としては個人に対する誠実さや信頼をより問われる時代になってくると考えます。

アフターデジタル2の読書メモでも紹介したとおり、この「収集した情報をいかに個人へ還元していくのか」と言う議論において中国は日本のはるか彼方先の世界のトップを走っています。
(中国の場合は個人よりも国を重視される国家構造上、果たして本当に個人の幸福につながるのかという疑問は置いておくにしても、)現在の中国で議論されているデジタルリテラシーは日本よりも何段も高度な次元であると認めざるを得ません。

そして必ず、日本においても今後このような議論がもっと盛り上がるにつれて個人のリテラシーが向上し、企業はさらに厳しい監視にさらされることになると考えられます。


糖質ダイエットに始まり、禁酒、禁煙など本来人間が中毒となって本能的に求めてしまうようなものを制限させる文化がどんどん根付きつつあります。

SNSが人々を中毒に陥れて孤独を助長し、幸福感を低下させる研究結果が次々に出ている中で今後「禁SNS」という文化も出てくると私は考えます。

最近ではGoogleの検索結果表示の方針が裏で変更され、一部の感度の高い人達はGoogle検索に頼らないようにしようという動きも出てきているそうです。ほんの数年前には考えられないことが、文化として根付くことは今後も訪れることでしょう。

そのために企業は常に「人々にとって真に価値あるものは何か」ということを問い続け、真摯に個人と向き合っていかなければいけないということを改めて考えさせられました。

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@やました
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読んでいる本のメモをつぶやいています。
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