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おいしい珈琲屋さんは考えることをやめない

苦くない珈琲なんて、ないと思っていた。

白金台の路地裏にある珈琲屋さんで、私はそんな珈琲を知った。仕事の打ち合わせでお店を初めて訪れたのは、未知のウイルスによるステイホーム期間が明けた、2020年の夏のことだった。

商店街の紹介冊子を作る企画にメインライターとして参加することになった私。店長さんが商店街の広報担当とあって、自然とその珈琲屋さんが打ち合わせ場所として選ばれた。

うさぎの名前を冠したそのお店の扉を開けて、真っ先に目が合ったのは、学究肌の人特有の雰囲気を備えた男性だった。
彼が店長さんだと知って、意外だな、と思った。とても、店名にうさぎの名前を使用するようなロマンチストには見えなかったのだ(後日、店長さんと奥様がうさぎを飼っていたことを知り、納得することになる)。

通り一遍のあいさつを済ませると、店長さんからおもむろに尋ねられた。「どんなの飲みたい? さっぱり系? コクのある系?」

これから始まる打ち合わせのことで脳内を支配されていた私は、“お客様”として突然扱われたことに驚いてしまって、一瞬反応が遅れてしまった。
ええと、コクのあるのが好きです。酸味は苦手なんですが。

すると彼は、カウンターに並ぶ、パステルカラーの缶の中から、いくつか香りをかがせてくれた。ベリーの香り、柑橘系の香り、スイーツのような香り。ひとつひとつ違う香りの豆のなかから、私はピンク色の缶に入った豆を選んだ。訊けばエチオピアの豆だそうだ。

打ち合わせの席につき、編集メンバーと珈琲を待っている間、すでにこのお店の珈琲を知っているメンバーから、ほかの店との味の違いを聞いているうちに、期待に胸が高鳴る。メンバーのひとりは、珈琲はまったくダメだったが、この店でだけは飲めるという。

コロナショック後のひきこもり状態からの初仕事で、仕事モードになかなか切り替わらないところに、眠たい朝の時間帯。もうろうとした頭をたたき起こす、ガツンとした刺激を予期していたが、ひとくち、珈琲を含むと、そのイメージは、さらりと裏切られた。

あれ、苦くない!
何、この透明感!
刺激は皆無なのに、コクがあるよ!?

――と、整理のつかない感情がぐるぐると頭を駆けめぐる。

珈琲特有のものだと思っていた、ツンとする刺激がまったくない。ブラックなのだが、ミルクを含んでいるかのような口当たり。苦み、渋み、えぐみ、おおよそ珈琲が持つであろう特徴がことごとくなかった。

とにかく、

おいしいっ!!

全力で叫びたかったが、仕事の場なので、上品に微笑むにとどめた。熱く語りたい気持ちを必死に抑える。あぶない、あぶない。初対面で引かれてしまう。それに、適切な言葉も見つけられない気がした。どれほど言葉を尽くしても表現しきれない。それは私の知りうる珈琲ではなかったのだ。

その日から何度となくお店を訪れ、冊子の編集のために、取材先に同行していただいたりする中で、わかったのは、店長さんはそれこそ専門家レベルで珈琲を研究しているのだということ。
珈琲豆の選定、焙煎、挽き加減、抽出温度、どの工程においても、徹底的にこだわり、その熱量は常人とは思えない。彼の生活においては、珈琲が最優先される。そんな珈琲一色の人生は研究者そのもので、やはり最初に抱いた印象は間違っていなかったのだと思った。

彼の珈琲は、誰に教わるでもなく、ゼロから自分で重ねてきた実験の結果だという。
特に焙煎は教えられるものではないのだそうだ。教えられたものは、無意識のうちになぞってしまうから、応用ができない。自分で答えを探し出すこと以外にないという。

答えがない。それは、どんな職業でも同じだと思う。

私が日々格闘している“文章を書く”という行為にも、これが最善、という手法はない。誰かに教わったわけでもないし、インタビュー相手や取材先、クライアント、媒体によって、書き方も全然違ってくる。正直、自分の中でもこれと言ってルールは決めていないし、ハウツー本が教えてくれるのは、すべての入口に過ぎないのではないかと思う(学生時代、読みあさったけど)。

店長さんが言うように、教科書やマニュアル、人が教えてくれることに頼ってしまったら、甘えが出て、自分の言葉が書けなくなるのではないか。私はそれを恐れているかもしれない。結局、自分の頭でその都度、考えるしかないのだ。
珈琲屋さんの日常は、実験、考察、実験、考察、実験、考察。その繰り返しなんだそうだ。
地味でしょ。でも、だからうちの珈琲は世界一なんだよ、と店長さんは言う。努力に裏打ちされた言葉だから、説得力がある。

「考えることをやめちゃダメだよ」
店長さんが繰り返し話してくれた、この言葉を、私は一生忘れないだろう。

思考を誰かに預けるのは楽だ。居心地のいい、一杯目のワインを飲んだときみたいに、ゆらゆらりとした世界にいられる。
しかし、だ。気の遠くなるような進化を経て、考えることを獲得したのが人間である。いつか、AI技術が革新的に進んだりして、私たちが、思考の呪縛から解き放たれるときが来るとしたら、それは自分であること、人間であることを捨てることにほかならないのかもしれない。
ああ、ぞっとする話。

だから私も、考える。大変だけど、つらいけど、頭痛くなるけど、夜眠れなくなるけど、便秘になって憂鬱だけど、考える。

考えることを愉しめ、自分。それしか、生き残る道はない。

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執筆後のつぶやき

挿絵に、フィンセント・ファン・ゴッホの『ゴッホの麦わら帽をかぶった自画像』を使わせていただきました。ゴッホもまた、独学で絵を学んだ、努力の人でした。ゴッホが生涯を閉じたのは37歳。たった10年の画家人生にもかかわらず、唯一無二の力強い作品群を生み出しました。なんて濃厚な人生でしょう。ゴッホはミレーなどの絵を模写することで学んでいたといいます。模写は文章にも有効なので、よくわかります。
さて。今日は日曜日。天気がいいし、娘も午睡のゴールデンタイム。私も天声人語を写そうかな。

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