思考せよと活字は言う〜現代社会の「正常な」成員として
いきなりですが、見田宗介の文章を引用します。
この文章が書かれたのが1996年と少し古いですが(私はまだ生まれていませんね)、現在でも通ずる内容ではありませんか?
情報化が進み、複雑化した社会において、生活する上での「必要」が幾重にも積み重なっています。何百年も前に比べたら、技術革新によって私たちの生活が楽になったと思いきや、実際はそうはなっていません。それこそ、新しく「吊り上げられた」絶対的な必要の地平が、私たちを悩ませます。
私たちがどれだけ狩猟採集民に憧れていたとしても、現代社会で生きることを強制されます。どれだけ「狩猟がしたい!」「現代社会を生きたくない!」と、泣き叫んでも、国民の義務を果たさねばなりません。「正常な」成員として、この複雑化した現代社会を生きねばなりません。
かつて狩猟採集民はマンモスを狩ったり、木のみを採り、場所を転々と移りながら生きていました。そのような社会(?)では、生きるために必要なことは「狩猟」「採取」ぐらいで、「必要」の地平が限りなく低い状態にあります。「必要」は直接的に充足されます。
しかし、現代社会においては、生きるために必要なことが多すぎます。衣食住を例に挙げるとわかりやすいですね。衣食住は生きる上の「必要」です。「衣」「食」はお金を払って手に入れるものです。もちろん「住」もお金を払って手に入れるもので、家に住み続ければ水道代や光熱費など毎月お金を払っていかねばなりません。そして、お金を払うためには、当然働く必要があります。労働し、お金を稼ぎ、衣食住という「必要」を充足させるのです。つまり、現代社会において、「必要」の地平は狩猟採集時代に比べ、とんでもなく吊り上がっているのです。「必要」は直接的ではなく、複雑な手続きを踏むという意味で間接的に充足されます。
それに加え、「衣」に関して、「今はこのコーデが流行り」などと広告で喧伝され、流行のファッションなるものが生まれ、人々の購買意欲を高まらせる。「食」に関して、道端を歩いていたらあらゆる看板にレストランやファストフード店の広告があり、消費者に食欲を引き起こそうとする。「住」に関して、テレビ番組で裕福な人が暮らす豪華な邸宅の映像を観せることで、「いつか私もこんな家に……」という思いを、テレビを観る者に呼び起こそうとする。しかし、上記の事柄すべて、人々の欲望を喚起するというもので、どの欲望も「必要から離陸」しているんですね。需要と供給という言葉がありますが、私たちにとって「需要」は「欲望」と同義であって、「必要」ではないんです。そう考えると、現代社会を生きる人びとは、高水準に設定された「必要」を充足させたうえで、〈必要から離陸した欲望〉を満たしていくという芸当をやってのけているわけです。すごいものです。当然、「必要」にしても「欲望」にしても、充足させるためには貨幣が必要ですから、お金をしっかり稼ぐ必要がある。資本主義社会を生きている以上は給与に差があるのは仕方がないことで、そこで貧富の差が生まれてしまう。「貧」の人にとっては地獄そのものでしょう。なぜなら、「欲望」を充足させるとお金がなくなってしまうので、稼いだお金はすべて「必要」を満たすために費やすわけですから。(もっとも「欲望」を満たす余り、「必要」を満たせず、どうしようもない生活をしてしまっている人もいますが…)
そう考えると、私たちは何のために生きているのか? という話になりそうです。狩猟採集の時代は、「狩猟」と「採集」という「必要」を満たせば、後は川辺で遊ぼうが、動物と戯れようが、自由だったわけです。自由に欲望を満たせたことでしょう。その時代に比べ、娯楽のレベルは上がったかもしれませんが、その分「必要」の水準が高まりすぎて、現代人は疲弊してしまったわけです。疲弊だけならまだしも、貧困になってしまい生きづらくなってしまった人が多くいるという現状。これこそが見田宗介のいう「北の貧困」の実態なのでしょう。
私は「欲望」という言葉を聞くと、マルクス・ガブリエルの言葉を思い浮かべてしまいます。
私たちは自由意志を持っているはずなのに、学界の泰斗の言葉を無批判に受け入れたり、巷間の広告塔に見入ったりして、自ら自由を放棄して、欲望の奴隷になろうとする。特に顕著なのが、スマホでしょう。移動時間はすべてスマホの操作。ゲームやらSNSやらが私たちの欲望を駆り立て、スマホをつい弄ってしまう。このとき、人間とスマホの関係性が逆、つまり主客転倒が起こっているはずです。まさにスマホの奴隷状態。
そのような状態に陥っているとき、基本、人は何も考えていません。本来、生きる上で「自分について」「社会について」などいろいろ思索にふけることが多々あろうかと思いますが、スマホによってそういった沈思黙考する時間を奪われ、ただひたすら瞬間的な欲望を満たそうとするという(こう言ってよければ)極めて動物的な行動をとらされてしまいます。
ですので、見田のいう「必要から離陸した欲望」というのは現代社会が人々に駆り立てようとする欲望を指していると思うのですが、そうであるならば、まずはこの欲望の正体に気づき、ちょっとずつ離れていくことが大事なのではないでしょうか。そう、適度な距離感を保つのです。欲望の側にどっぷりとはまってしまえば、「必要」を充足できなくなってしまいます。
結局、私たちの側が変わらねばならない、という結論に至ったわけですが、本当に変わるべきは社会の側だと思うんですね。
人々が忙しなくして生きているこの現状を打破する必要があると思います。國分功一郎さんではありませんが、現代社会には「暇」がなさすぎるのです。「暇」な時間を確保し、脳みそを休める時間があった方がいいのではないでしょうか?
しかし、不思議なことに、「暇」はないが、人々は「退屈」しているのが現代社会の実態なのです。
どれだけ欲望を満たしても、その欲望が立ち消えることはありません。欲望とは無限に湧き出るものですから。しかし、その欲望を満たそうとする私たちはどこか退屈しています。どれだけ流行りのファッションを買っても、どれだけおいしいお菓子を食べても、豪華な邸宅で暮らしていても、心のどこかで「退屈」と感じているのです。簡単な例で言いますと、スマホでゲームをする際に作業的に行うことはありませんか? それ、まさに「退屈だ」と実感する瞬間でしょう。ゲームとは、欲望を満たすためにするはずなのに。
しかし、この「退屈」の原因は社会の側にあるのです。
それをミニオンを例に挙げて説明した文章があります。
面白い考察です。
筆者は、豊かな生活を得た瞬間に人々は「退屈」を感じてしまう、ということをミニオンを例に述べたわけです。こう言われてしまえば、「退屈」から逃れることは実質不可能だと思わざるを得ませんし、実際そうです。私たちは「退屈」から逃れることはできません。だから、その「退屈」をどうにかするために「欲望」を満たす方向に走ってしまうのでしょう。
では、「退屈」とどのように向き合っていかねばならないのでしょうか?
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の一部を紹介すると、退屈をどうにかするための処方箋として「人は楽しむことを学びながら、ものを考えるといったふうに〈人間であること〉を楽しむ」ということが挙げられていました。
前後の文脈を断っているため、これだけ読んでもよくわからないかと思います。端的に言うと、思考する力を持っている人間である以上、人間であることを楽しめよ、というメッセージで、それが「退屈」と向き合うヒントになるみたいです。たしかに、スマホゲームに没頭し、スマホの奴隷状態になっていると、その瞬間、人は人間らしさを失っていますもんね。また、スマホゲームのことだけを批判するのはよくないので、ファッションやスイーツにも批判の眼差しを向けますね。ファッションやスイーツに人々は絶えず欲望を感じていますが、それは自分の純粋な欲求からそれらを欲しているのだろうか、と思考することなく、ただメディアが私たちに掻き立てた欲望によって、それらを手に入れたいと思わされているのではないでしょうか? そうなってしまっているならば、人間は主体性を失っている状態なので、まさに人間らしさを喪失していることになります。
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私たちは高度化し複雑化した社会を生きており、そのような社会は「必要」を高水準に設定し、同時に消費者に「欲望」を駆り立てます。しかし、私たちはその「欲望」と適度な距離を保ち、決して「欲望の奴隷」にならないように努める必要があります。また、現代社会はものに溢れてはいますが、それによって「退屈」な生活を強いられています。このような「退屈」とこれから向き合っていかないといけない。そのために、思考する力を持つ〈人間である〉ということを楽しんでいこう。
まとめるとこんな感じでしょうか。
本当はまだ書きたいことがあります。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』で述べられている「消費と浪費の違い」についての話であったり、見田宗介の「南の貧困」についての議論、それに関連する斎藤幸平『人新世の「資本論」』の一節にも触れたいなと思いながらも、ひとたび書いてしまうと長くなってしまうので、今回はとりあえずこれだけ。
それにしても、思考はよいものです。思考を働かせるとき「退屈」からの逃れられますからね。そして、複雑な思考ができるのは人間だけ。しかも無料でできますからおすすめですよ。みなさんもぜひ。
※ちなみにタイトルは橋本治の書籍のもじりですね。