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魯迅の『野草』


魯迅の『野草』

魯迅の『野草』は散文詩集であると言っていい。「このような戦士」という文章が批判するのは、社会変革の前に立ちはだがる旧体制の様々な悪霊たちである。彼らは「型どおりおじぎする」ことを武器とする。
彼ら「無物の陣」を構成するのは慈善家、学者、文士、青年であり、彼らは頭上に学問、道徳、論理、正義などと美しい看板をかかげている。
「ただ自己あるのみ」と目覚めた戦士は、それら中国社会を暗黒にしている者たちと戦い続ける。「だがかれは投げ槍を振りかざす」というフレーズのリフレーンが印象的である。

短編「影の告別」

「影の告別」という文章は、同じようなテーマを扱っているが、戦士のより内面的な世界に焦点を合わせている。
夢のなかで自己の分身である「影」が「おれ」に絶縁宣言をし、自分の「気に入らぬもの」が「未来の黄金世界」にあるならば、むしろ暗黒に沈むことを選ぶという。「友よ」と影が呼びかけることから、同じ社会変革を目指す進歩勢力の仲間への決別のようにもとれる。
『魯迅「野草」全釈』(片山智行著)によれば、魯迅は「将来の黄金世界でも反逆者は死刑に処されるでしょうが、それでもみんなは黄金世界だと思っている、といったことが起こるのではないか」と一九二五年に手紙で書いた(『両地書・四』)。後に共産主義社会のなかで起きた粛清のことを考えれば、魯迅には先見の明があったといえるだろう。

だが、おれは結局、明暗の境に彷徨う。
それが黄昏なのか黎明なのかわからないが。
おれはまずは灰色の手を挙げて、一杯の酒を飲み干すまねをしよう。
おれは時さえわからぬときに、ただひとり遠くへ行く。
ああ、ああ、もしも黄昏なら、黒夜がおれを沈めるだろう。
そうでなければ、おれは白日に消されるだろう、もしもいまが黎明ならば。(「影の告別」片山智行訳)

「影の告別」が「このような戦士」という文章より優れているように思える理由は、それが暗示的な詩の言葉で書かれているからである。「影の告別」は魯迅が生きた時代背景や具体的な対象をいったん括弧に入れても、読者に訴えてくる言葉遣い、言葉のリズム、言葉の力を持っている。


ならば黎明

このような魯迅の、現実世界から少し浮上したところで語るスタイルは、翻訳や研究のような魯迅文学の受容の歴史とは別のところで、日本語の現代詩人によって継承されているのではないか。それが「もしも今が黎明ならば」という魯迅の「影の告別」を一節をエピグラフに引いた、正津勉の「ならば黎明」(詩集『ならば黎明』)という一篇の詩である。

何故?
深尾お前、何故
何故、俺、俺が? 俺は
鼻腔抑えてお前
違う、絶対!
俺はと
佇立し後退する、一歩
鉄、鉄がまたすぐ
頭上たかくふり
あげられまっすぐ
耳、耳が両ヘビーッと
血噴きすてた。 

魯迅と正津勉

「ならば黎明」という詩をおさめた詩集が書かれたのは、一九七四年から七七年のこと。学園闘争が失速した後、過激派が相次いであさま山荘事件やを三菱重工爆破事件を起こした時代の産物としてこの詩を読めば、想像できることは三つほどある。
書き手が学園闘争の内ゲバの現場にいあわせた経験があるのか、それがフィクションだとしても学園闘争への反省や考察を深めようとして書いたのか。あるいは、内的な葛藤に自分なりの時代の形式を与えたというのか。

「厚みのあるリアリティ」という正津勉論を書いた小説家の小川国夫は、そのような時代のリアリティを直接に反映した詩である、という読み方を退けて次のようにいう。「ならば黎明」は時代と無関係ではないにしても、意図は言葉の自立の方にあるというのだ。
現代詩においては、意味や説明よりも重要なものがあり、それは詩人の言葉に読者を同化させる「言葉の感覚性」である。「言葉が人を巻きこむ腕」に当たるのがこの感覚性であり、「リアリティさえ正当に感受すれば、想像は開け、かくして全体的理解に進む」というのだ。


現代詩の試み

正津勉自身は「わたしはかの魯迅の絶唱「影の告別」の畳句をあえて逆倒させて一集の表題としている。(…)魯迅の詩句が烈しくもしずかにわたしの胸を涵(ひた)していた」と「何たる惨事!」(『正津勉詩集』)という覚書のなかでいっている。
「もしもいまが黎明ならば」と魯迅が書いた詩句を、正津勉が「ならば黎明」とひっくり返してリフレーンしたことが重要な何かなのである。魯迅の「黎明ならば」は、日本語訳では助動詞の「だ」に助詞の「ば」がついた仮定形の「ならば」の用法である。正津勉の「ならば黎明」は「それならば」の「それ」を省略した接続の用法で使用されている。

つまり、いま現在が「黄金世界」の黎明なのだとしたら「ただおれのみが暗黒に沈められる」という魯迅の実感を受けて、それを精神的にリレーする形で約五十年後に正津勉は次のようにいう。
そうなのだとしたら、自分たちの生きている時代のリアリティもまた一つの「黎明」にあり、詩に描かれる暴力的な「黄金世界」のなかでは、自分もまた暗黒に沈み、白日に消えることを選ぶだろう、と詩人は高らかに宣言する。
魯迅の「影の告別」から逆照射される「ならば黎明」という詩は、来るべき世界を現実の事件や行動ではなく、言葉の感覚性と想像力で切り開こうとする絶望的な現代詩の試みの一つなのだといえるかもしれない。


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