言語や言説と造形や美術は実は同じものである。(造形作家や美術作家の思い上がりはもうやめたほうがいい)

特に日本の造形作家や美術作家の思い上がりというか、
その幼児性には、
本当に嫌気がさすわけです。

ただ無責任に作品だけ創って、
他人に観せてどうだって言うわけですね。

その上、
言語や言説での論理的説明とか、
鑑賞者を納得させる言葉を使うことを、
極端に嫌うわけです。

むしろ、
それをする事が作法として、
無作法だと思い込んでいるくらいです。

なのに、
自分の作品には造形を超えた、
何かを表現している、
そんなことを言う人たちが、
たくさんいます。

これは勘違いも甚だしい。

その人たちから言うと、
言語や言説にできないものを、
作品にしているのだから、
言語や言説で説明しないのだと。

あのね、
この世の中に、
全てのことを、
きちっり伝える事ができるものなんて、
「一つたりとも無い」ですよ。

科学、数学、物理だって、
その概念世界での合理性なのであって、
全てのことは説明できない。

当然、
言語や言説だってそうです。

そしてそれぞれの表現は、
ただそれだけを表しているのでは無く、
それ以上のものを表現しているわけで、
別に造形作品や美術作品だけが、
それ以上の表現をしているわけでは無い。

例えば、
波動方程式を見て、
恐怖で心臓がバクバクなる人もいるわけ。
それってどういうことか理解できますか?
それは方程式以上の何かを、
感じているからですね。

それは言語や言説も同じで、
その言語や言説の形や意味以上の、
何かを感じるし表現しているわけです。

ですから、
美術や造形だけが、
それ以上の何かを表現できる方法なのだから、
それを言語や言説することは無作法だというのは、
一神教的盲目性と同じですし、
日本のアートがカルト化する大きな原因です。

私はアートを研究しています。
その上で言語や言説をアート作品として、
この様に発表しています。

これは私なりに研究し、
行き着いた表現形態なのです。

その理由として、
そもそも、
言語や言説と造形や美術に、
差異は無いと考え、
原理的には同じだと考えているからです。

簡単に説明すれば、
それはアウトラインを持ち、
そのラインがゲシュタルトされ、
概念となる。

この概念世界において、
全ての物事に通づる原理です。
それは、
絵画だろうが彫刻だろうが、
象形文字だろうがピクトグラムだろうが、
絵文字だろうが顔文字だろうがです。

日本のアートというのは、
造形作品や美術作品を、
言説したりすることをタブーにすることで、
ある種アートというものを、
神格化し、
自分たちの特権を守る、
つまり既得権益化する為の方策に過ぎないのです。

私は言語や言説をアート作品としています。
それはある種日本アートへのアイロニーなのです。

私はアートを論理的に語ることのタブーを、
一刻も早く取り除きたいと考えています。

美学者母

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