言語のファインアート(美術)としての可能性(対象の独立した立脚による芸術の基底として言語表現は可能か?)
まず今回も、
【言語のファインアート(美術)としての可能性】
という図を最初にご覧下さい。
その上で、
私は言語というものを、
ファインアート(美術)として、
捉えることができるのだという前提で、
この様にアーティストでありながら、
日々言葉を紡いでいるわけです。
私がなぜ「言語」というものが、
ファインアート(美術)として、
捉えることができると考える様になったのか、
それは2010年に発表した、
「ウェブアート宣言」に遡らなければ、
ならないわけです。
この宣言では、
ウェブインスタレーションという、
私が創り出した全く新しい概念を元に、
インターネット上に浮遊する情報が、
カオスさを持ち、
ディスプレイ越しに、
新たな秩序として表層している。
その様な事を宣言したものです。
それから私は、
言語そのものに、
芸術性を見い出し、
言語そのものを造形として捉える様になりました。
そしてウェブアート宣言から10年が経過し、
そろそろもう少し踏み込んだ形で、
一体言語がどの様に造形として理解できるのか、
その部分を解説していきたいと思います。
まず芸術の大前提として、
芸術は絶対的に何かの投影であってはならない、
これは簡単な意味での投影ではなく、
次に話す事を体験するための前提条件として、
その投影の不可能性は意味をなすわけです。
それは芸術における絶対的な体験、
すなわち「芸術体験」を体験する対象は、
何かの投影では無く、
それ自体による体験であるから、
何かを投影したものである事が、
不可能である。
その様な上で、
芸術は絶対的に何かの投影ではあり得ない、
というわけです。
すなわち、
それ自体が私たちに、
「芸術体験」を体験させる対象であり、
何かの投影では無いという事です。
まずこの様な理解の上から、
「言語」というものが、
「美術」になりえないのだという、
ある種の「自明性」を考えていきたいのです。
私たちが言語を考える上での、
メディアというものを想像すると、
本や雑誌、新聞というのが、
前時代的な自明性を持っています。
そしてそれらを書いている人たちが、
そのメディアの向こう側に、
必ず対象として立脚しているのです。
それは言語を用いて表現する、
それらの表現活動が、
ある一定の著名人や有名人など、
限られた人間によって行われていた、
その事実が浮かび上がってくるわけです。
つまりここから何が理解できるかというと、
前時代では言語というのは、
著名人や有名人の「像」として、
言語は私たちのメディアに、
表層していたことが理解できるのです。
つまりこれは同時に、
前時代において言語は、
「言語」=「像」
としての自明性を持っていたことが理解できます。
そして先にも述べましたが、
「芸術」とは「投影」であってはならない、
つまり「像」ではありえないのであって、
そこからも「言語」が「美術」として、
成立しない事も理解できるのです。
では私はここまで理解しているのに、
なぜ「言語がファインアート(美術)」、
として捉えることができると言うのでしょうか。
それは前述の通り、
言語が表層されるメディアによって、
「言語がファインアート(美術)」になる、
それを予見することになります。
前時代での言語のメディアは紙媒体で、
本や雑誌、新聞などごく限られた人間しか、
言語表現を行うことができなかった。
では現在はどうでしょうか?
皆さんが私のこの言説を読んでいる様に、
誰もが言語を用いて、
言語表現を行うことが可能です。
私は10年前に「ウェブアート宣言」を宣言し、
ウェブインスタレーションという、
新しい概念を定義した動機は、
この言語というものの大きな変化に気づいた、
からなのです。
それが理解できるのが、
【ディスプレイ上の言語と
紙媒体の本や雑誌上の言語における
像と対象の独立した立脚の違い】の図です。
前時代における言語表現のメディアとしての、
紙媒体は固有名の像として、
言語が表層されていました。
しかし現在における言語表現のメディア、
つまりインターネット上のウェブ、
さらに言うと、
パソコン画面のウェブブラウザ、
もっと言うと、
貴方の目の前にあるディスプレイ、
ディスプレイそのものが、
一つのゲシュタルトとして、
私たちの眼前に、
言語が独立し立脚しているのです。
この部分をもう少し深堀すると、
このディスプレイは、
有名人、著名人、匿名、無名、
具体的には、
この私の文章も、
アメリカの大統領の言語も、
天皇陛下の言語も、
日本の総理大臣の言語も、
どこの誰かわからない誰かの言語も、
同じこのディスプレイに並列するのです。
そしてもはや私たちは、
誰の言語なのかということに意味を、
持たなくなっているのです。
それは良い意味でも悪い意味でも、
現在表層されていますが、
まさに私たちは、
「像」としての「言語」ではなく、
「言語」そのものを「対象」にしている。
それがまさに浮き彫りになるわけです。
そして芸術の基底を改めて考えてみましょう。
「芸術」は絶対的に「像」ではあり得ないのです、
その上でこの様に、
インターネットに浮遊する「言語」は、
「言語」そのものが「対象」になっています。
つまり、
「インターネット上の言語」は、
ファインアート(美術)として可能である。
私はその様に考えているのです。
だからこそ、
真贋を見抜く「美学」が必須となり、
言語に「美が宿り」、
ファインアート(美術)としての「言語」が、
ついに私たちの眼の前に、
対象の独立した立脚による芸術の基底として、
立ち現れてくるのです。
とここまでです。
なかなか難解な文章になってしまった?
出来るだけ理解してもらえる様に、
これでも頑張りましたwww
ということで、
10年前に発表した、
「ウェブアート宣言」
「ウェブインスタレーション」
それらの簡単な解説をしてみました!!!
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