会田誠の独立性を問う

世界史が教える日本の大学の構造的欠陥

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45954


この記事の内容で大学について問題にされていますが、

それを考えながらふっと会田誠の美術館の問題を、

思い出しだので、それに合わせて。

インディペンデントである事の重要性を書いてみたいのです。

この記事でも学問というものは、

あらゆるものから独立性を保つ事が重要であると、

世界史などを振り返りながら述べられている。

それは例えば、

最近の日本での国立大学の人文系の問題につながるのではないか。

西洋で名門大学といえばそのほとんどが、「私学」である。

これはこの記事で述べられているような背景があるからだ。

そして日本では学府と言うように、

あくまで西洋の体裁を真似て国が推し進めた上で、

「国立」の大学が名門大学となっている。

この時点で大学の捉え方というものが、

「西洋」と「日本」では全く違う事がわかる。

その上で「学問」にもっとも大切なこととは?

という問題に対して、

「徹底的な客観性」であるとするならば、

西洋的な文脈から生まれた「私学」と、

日本的な文脈から生まれた「国立」では、

どちらが「学問の独立性」を保てるのだろうか。

日本では「御用学者」という言葉をよく聞くが、

答えは明らかに西洋的な文脈から生まれた「私学」である。

では日本の「私学」はどうだろうか?

日本の「私学」もまた、

国家から補助金が大量に流れ込んでいるのである。

この記事では、

その延長線上に「STAP問題」などがあると分析している。

例えば福島の問題に「御用学者」が擁護する、

その上、その御用学者を批判する学者も、

国のお金や国の補助金で学問をしている。

そんな中で「徹底的な客観性」は担保できるのだろうか。

それは構造的にも原理的にもできないということだ。

これはアカデミックな問題だけでなく、

日本では芸術にも全く同じことが言える。

それが、

会田誠の東京都美術館の問題である。

学者にも「徹底的な独立性」が必要であるが、

芸術家にも「徹底的な独立性」が必要である。

それは「徹底的な独立性」や「徹底的な客観性」がなければ、

非常に「悪質な権威」を生み出してしまうからだ。

「権威」とは「黒いものでも白」にしてしまう「力」だ。

では会田誠はどうだったのだろうか、

東京都現代美術館は名前の通り「公立」の美術館である。

いわば「体制」側の施設である。

「体制」側の施設で「体制」側の批判をする。

そして「体制」側からある種の生命の担保をされている人間が。

そこで「体制」側に表現の自由を求める。

僕からするとかなりの「だだっこ」にしか感じないのであるwww

僕なら「体制側」の外側で独立性を担保した上で、

「体制批判」をするのが筋だと考えるわけです。

これは「成熟」とは対極の「未熟」だと捉えられる。

例えば昔の「学生運動」などもそうであって、

彼らは「体制」にある種守られた上で、

「体制批判」をしていたのであるから。

会田誠と同じである、

最近のシールズという学生グループと同じ。

「未熟な会田誠とシールズ」という政治団体でも作ればいい。

昨今の思想の世界では、

その「独立性」を担保しようとする動きが活発で、

例えば思想家の東浩紀や、評論家の岡田斗司夫などは、

生命担保をインディペンデントに行っている。

芸術の世界では村上隆などは、

生命担保をインディペンデントに行っている少ない芸術家だ。

これから学問だけでなく、

政治、経済、芸術などあらゆる分野で、

インディペンデントである事が重要になる。

なぜなら「本当に言いたいことが言えない」のだ。

「本当に言いたいことが言える」世の中になんてならない。

それは社会が相互依存しているものである以上変わらない。

表現者は命がけで「独立性」を獲得する事。

それが命と同等に大切なのである。

美学者母

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