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叱りは不必要であると世界で俺だけは言いたい


叱ることは必要ではない

叱ることは必要ではないと、世界で僕だけは絶対にそう言いたい。
なぜなら、叱られたことでいいことが今まで一つもないからであるし、叱る以外の方法として、アンガーマネジメントであるとか、アサーティブコミュニケーションであるとか名前がついているもの自体も存在するし、そもそも対話などというとても基本的なコミュニケーション手段がある。またそれらを踏まえて叱るという行為の身勝手さそれ自体に怒りを覚えるからだ。

叱りの経験

叱りの経験はいくつもあるが、記憶に残っているものを上げてみる。

<納得いっている>
・幼稚園の時に10階近くあるマンションの高い所に住んでいた時、柵もちっちゃいベランダもないようなすぐ落ちるタイプの窓のへりによじ登って、網戸にもたれかかっていたら、母親が血相を変えて飛んできて、「そんなに落ちたいなら一回落ちてみるか!」と怒られたこと。
・小学校の時に女の子を揶揄って泣かせてしまって怒られたこと。

<納得いっていない>
・幼稚園の時に休み時間が終わっても、チャイムなどがなかったためそれに気づかずドッジボールをしていて、怖い先生に怒られて泣きながら謝ったこと。
・中学校の時に、忘れ物をして怒られたこと。体育教師、理科教師などが特に。
・基本的にずっと中学校の教師がみんなピリピリして常に叱られてるっぽかったこと。
・中学校の時に、生徒会の仕事ができなくて、あんたって成長しないねなどと理科教師に怒られ続け、めまいを発症したこと。
・大学の時に、研究室に関するメールが届いていないのにも関わらず、研究室配属の挨拶について詰問され、脈絡なく君おもんないねなどと言われたこと。
・大学の時に、研究員の人が僕の実験テーマで叱られていたこと。

・大学院の時、大学院係のメールの通り研究室配属を出していたら、挨拶が実は必要で怒られたこと。

この中で、自分が納得がいっているのは、「親に窓から落ちそうになっていて怒られたこと」と、「女の子を揶揄っていて怒られたこと」だけである。
中学校はあまりにも理不尽だった。中学校の「叱られ」には身体症状が出ており、この時に寄り添ってくれた先生には感謝しているが、この時ピリピリとした空気を作っていた学校の先生や、叱ってきた先生には怒りのみを持っている。
高校の「叱られ」経験がないのは高校の時は中学の経験があったため、叱られるリスクを一つも取らなかったからである。
大学時代以降の経験については、社会人の皆さんには怒られるかもしれないが、僕は納得がいっていない。つまらない理由を言うと、コミュニケーションエラーが必ず発生していること、社会人の作法というものを誰も教えてはくれていないことに理不尽さを感じたことが挙げられる。しかし、そんなことよりも、伝え方である。高圧的な態度、人格否定、ピリピリとした空気、常識という言葉で自身のエゴを正当化する姿勢。これらによって自分に身体症状が発生していて、辛かったことを思い返すと、「僕のことを思って」というセリフは言い訳にもならないのである。
大学時代の叱られは僕に深い爪痕を残したが、大学院時代も同じような叱られに会ってしまった。授業などに積極的に参加していて、言われていることはやっていたから許されたが、それでも僕が納得がいかないのはその叱り方にあるのだと思う。

叱られによる身体症状

叱られることで、僕は中学校以降身体症状が出るようになった。基本的に、ピリピリとした空気がダメになってしまって、動悸やら吐き気やら震えやらで大学時代の叱られ時には抗不安薬をもらうほどになってしまっていた。
叱られの前の気持ちは最悪で、何も手につかない。叱られるのだから準備をしないといけないのだけど、何も手につかないのである。頭の中は叱られることへの不安でいっぱいで、飛んでしまいたくなる。ただ、少し前までは飛ぶことすら頭にはなくて、死ぬしかないと思っていたのだ。しかも死ぬなら教授も道連れの方が良いと思うほど追い込まれるのである。叱られ後はさらに最悪で、叱られを予期しやすくなるため、声のトーンや表情や発言、全てに敏感になり、いつもは気にしていないようなことで動悸が発生し、その後何も手につかない時間が続く。その間はとにかく、楽しげな映像を見て時間を潰すのだけど、何も解決にはならなない。そういった生活が続くとあっという間に限界が来てしまって、布団の上から動けなくなる。常に体が疲れていて、叱られないように必要最低限の宿題だけやっておく。時間を気にせず飛んでくるメールを見るとそれだけで動悸が発生するので、通知も切っておく。そして、やっとの思いで相談して、「もうそんな大変な状態なんですね?大変でしたね」と声をかけてもらって涙が止まらなくなる。そんな状態である。
基本的に中学の時も、大学の時も、大学院の時も、動悸、吐き気、震え、焦りや不安や心配のような辛さが主症状である。

納得のいく叱られ

母から受けた納得のいく叱られは、自分のことを本当に思っていっているパターンの一つである。しかもそれは、僕の場合、相手が社会で生きやすいようになどのものではない。僕が死ぬかもしれないという心配からくる叱りである。これは、どう足掻いても僕のためになっている。僕の場合、これくらい自分のためを思ってくれていないとかなり懐疑的に見る。説教するってぶっちゃけ快楽なのである。

小学校の学校の先生から受けた納得のいく叱られは、女の子を揶揄ってしまったことに対するものだった。これによって女の子はかなり傷ついてしまったようだった。僕はいじめをしてしまったと深く反省した。ちなみによくよく考えるとこの一年前に僕はこの女の子に好きな女の子をバラされそうになり、バラさない代わりにゴミ捨てなどをさせられていて、その経験が僕の女性不信につながっていくがそれはまた別の話である。人間というのは不完全で被害者が被害者だけということもないし、自分自身もあまりに不完全で足りない人間だと思う。
だからこそ、相手の心を大事にすることって大事なんじゃないかと思う。

納得のいかない叱られ

納得のいかない叱られに共通しているのは、僕の中の価値観に合わないことで叱られていて、かつ、強権的で強制的で脅迫的で高圧的であることだ。
今の中学校は改善していて欲しいものだが、当時は監獄のような場所だったし、メンタルヘルスの問題はここでたくさん起きていると思う。不良というものが発生するのも致し方ない。「学校の先生は忙しいから仕方ない」というのは、被害者にとっては関係のない話だ。第一、僕に寄り添ってくれた先生もいたのだから理由にならない。統治しやすいからその形態をとっているだけで、統治者の都合である。しかもそれは、先生自身のメンタルヘルスなどの知識不足は往々にしてあるだろうと思うし、先生が先生を退職に追い込むこともウチの中学校ではあったから、ハラスメントがまかり通ってしまう環境を先生たちは反省しなければいけない。部活や仕事を外部に外注できないのも先生文化によるところもあるわけで、文部科学省も大変問題なのだけど、僕に寄り添ってくれたあの先生を考えると、今「忙しさ」や「統治」を論理として使って、人を貶めている先生は早くそれをやめて、生徒一人一人に心があって、たやすくそれを傷つけることができることに気づくべきである。当時の僕みたいな、先生の機嫌を取るために高いストレス状態にある生徒のみんなは、君達が悪いことは一つもないと自信を持ってくれれば良い。先生がおかしい、大人がおかしいのである。

大学時代の叱られについても問題外である。第一話の通じない教授で、休学などを多数研究室から出していて、いろんな仕事を研究員に押し付け、休みの日も構わず電話をかけてきて、研究室の他の研究員たちから悪口を言われるような人物だったことからも、人権意識の低さが窺い知れる。
大学院の教授はそれよりはいくらかマシであるが、心の専門家として相手を思いやるコミュニケーションができていないことは大変問題だと感じるし、自分の心がまずわかっていないのではないかと感じる。

何が納得いかないのか

説教するってぶっちゃけ快楽なのである。
しかも、その根源には、常識も社会的規範も何もない。自分の感情だけがあるのだ。それは自分の守っていることを破っているのが許せないとか、こんなこともできないなんて馬鹿にしてやろうとか、めちゃめちゃ不快だからぶん殴ってやる。みたいな自分のエゴがあるだけである。
人間の行動全般が、社会的な価値を失った現代では感情を価値として動いている。そんなことに、大の大人が気づいていないことが問題なのである
相手にいうことを聞かせることができるという実に野蛮な結果によって、自分がやっていることが正しいと思いこめるのだ。
説教で相手の行動を変えることができないということは、僕の例からも明白であるが、さらに例を挙げると、薬物依存症などは叱っても全く意味がないといっていいだろう。これは薬物依存症の彼らが悪いのではなくて、あなたも依存性の高い物質に依存したらそうなるという話である。僕の例に近いがうつ病なども叱ったからといって治るわけではない。より現実に近い話として、不登校などはまさにそうである。いく必要もないのかもしれないけれど、彼らは如何ともし難い事情により、何故か学校にいけないのである。そんな不登校の基本的な回復プロセスに叱るなんてものは存在しない。
人の行動は心が動かしているのだから、まずは心を思いやらねば行動は変わらないし、第一、その人に向いていない行動はどれだけ強いても、全く生産性がないのである。一人一人に個性があるのである。

叱るというのは、一人一人の個性を踏み躙り、自分だけが正しいと思い込んで、自分の心に嘘をつく行為である。

叱らなくても、相手を思いやり、相手に思いを伝えるということでいいではないか。言い方に気をつければいいではないか。どう思うかを聞いてみればいいではないか。
どうして常識だとか、当たり前だとか、社会がどうだとかいう必要があるのだ。そんなことが生きにくい社会を作っているのではないか。

叱る時の理由はそんなに多くない。自分が嫌か、自分の我慢していることや衝動とかを相手がやった時に自分の悪い面を押し付けてしまう「投影」かだと思う。
みんなそんなにカリカリする必要はなくて、やめてほしいことは、自分にはこういう事情があるからやめてほしいんだとかそういうことでいい。何を難しい言葉を使う必要があるのだろう。自分の心で動くことはそんなに恥ずかしいことなのか?逆に規範とか論理で人間が動くと考えている人の方が幼稚ではないのか?
投影をしてしまう時、例えば、こんなことをするのはおかしい!!と思うかもしれない。SNSとかを見ていると特にそう思うかもしれないし、なかなかこのムカムカを抑え切れないかもしれない。でも本当にその人がおかしいだろうか。自分にはそういう部分はないだろうか。自分がしないようにしているだけなんじゃないのか。強くムカムカすることほど、自分の中にもあるものだと思えばいい。そして、試しにやってみればいい。今より生きやすくなるかもしれないじゃないか。

僕は今叫んでいる

僕は、今、叱りに対して、自分の気持ちをぶつけている。
先ほど言った叱りのパターンで言うと前者だ。自分が嫌だから叱るというパターンについて、叱らなくて済むように、僕はなるべく赤裸々に、自分が嫌だったことをこの誰もみていない場所で叫んでいる。これは僕のためでもある。僕が絶対に叱ることを許さないって決めることで、叱られることから身を守りたいからだ。そんなことをしないといけないくらい、ダメージを受けてしまっているのである。ダメージを受けているということに気づくのに中学校から数えて10年近くかかっている。ずっと考え続けて、もう自分だけは叱るという行為を否定して、そんなことをしてくる人をモブキャラだと思おうと決めたのである。そうじゃないと辛すぎるから。僕だけは絶対に、叱るってことを否定したいのだ。

世の中にはきっと僕や君のことを弱いっていう人がいると思う。でも、自分は叱りのせいでとても辛かった。君もそうだろう。どうやったって、体が反応してしまう。そんな体験をしてきてもなお、君はまだ自分の考え方のせいかもしれないと思っているのである。でも、もうそれでは体が持たないのだ。それでは同じ苦しみをずっと抱え続けないといけないのだ。君の人生に全く責任を取らないモブキャラが君を苦しめ続けるのだ。
前に進もうとしている君はもしかしたらこの困難を乗り越えて進むかもしれないけれど、いつまでも僕はここで叫んでいよう。
僕だけはこの世界の片隅で、「叱るってものは必要ない!!叱るってものはいらない!!!」って大きな声で叫び続けよう。

叱りは不必要である!!!!!


グッバイ、モブキャラ。


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