![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50657741/rectangle_large_type_2_9ef8345bc5565869e2f1722ee33ac4da.jpg?width=1200)
【映画評】 ロベール・ブレッソン『白夜』 Vol.2…モデル論…
《ロベール・ブレッソン『白夜』Vol.1…親密さと遠さの物語…》の続編です。
某花某日の夜
覚書き(3) モデル論
車が絶え間なく行き交い、背後には建設途中の近代的ビル群。わたしたちのイメージとは異なるパリの風景がスクリーンに映し出される。ここはパリとパリ郊外の境界であるサン・クルー橋。そこに右手の親指をたてヒッチハイクのポーズをとるジャック。周囲には同じ仕草のヒッチハイカーたち。ジャックは一台の車を止める。ドライバーは「どこまで?」と聞くが、ジャックは両腕をあげ肩をすくめ、何処でも、というポーズをとる。「乗って」とドライバー。すると突然、小鳥がさえずる静かな郊外。ジャックは垣根を飛び越え、草花の生い茂る斜面を2回でんぐり返りする。ジャケットを肩にかけ歌を口ずさみながら小径を歩くジャック。娘を連れた中年の夫婦がジャックを怪訝そうに見つめる。
夜のパリ。ヒッチハイクから戻ったジャックが車から降りる。ジャケットを羽織るジャックの後ろ姿。夜の街がアウトフォーカスで捉えられ、レンズボケの暖かな色のヘッドライトがたゆたうように流れる夜のパリを背景に、クレジットとタイトル。そして第1夜の始まりであるポン=ヌフ(Pont-Neuf)と書かれた灯の入った表示板のクローズアップ。
簡潔なアメリカ的ショット、無表情な(世界を再現しようとしない)登場人物、クローズアップ、艶やかでエロスを秘めたような夜の色彩、視線。時間にして2・3分の、この物語にほとんど寄与することのない不経済な冒頭シーンなのだが、ここで示されたそれぞれのショットに、ブレッソンの作法に繋がるすべてがあるといえないだろうか。
ブレッソンについてはさまざまな論考が現されているから、もうわたしなどが日記の類に書く必要もないように思えるのだが、「モデル」と「視線」について気づいたことを簡単に記しておきたい。
ブレッソンにおいては、人物とは俳優ではなくモデルであると、良く知られている。
モデルはどのように生成するのか。
ブレッソンによれば、初めに作家の中に生まれ、紙の上で死ぬ。それは生きた人物において甦り、フィルムの中で殺される。最後にスクリーンの上に投影されることで生を取り戻す。
3つの誕生と2つの死。このように誕生と死を繰り返すことによりモデルは生成される。とりわけ、撮影時に殺されるとは興味深い。モデルとはアクター(見せかけること)ではなく、〈在る〉ということ、という存在の現前性である。ブレッソンがシネマではなく、世界初の撮影と映写の機能を持つ実写複合映写機であるシネマトグラフ(Cinématographe)という用語を好むのは、このことによる。シネマトグラフとは映画を発見したリュミエール兄弟が創作した19世紀末の用語であり、人びとが「葉が動いている」、つまり、葉が〈在る〉ことに驚嘆した最初の魔術のことである。
世界には二種類の映画がある。「演劇の諸手段(俳優、演出、等々)を用い、再現するためにカメラを使う映画と、シネマトグラフの諸手段を用い、創造するためにカメラを使う映画」(ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』松浦寿輝 訳)。
ブレッソンはいうまでもなく後者なのだが、演出ではなく、監督という言葉がもっともふさわしいのがブレッソンであると思える。演出(ミ・ザン・センヌ mise-en-scène)とはシーンに適合するように出演者をあてはめること、つまり再現することであり、監督(ディレクター directeur)とは方向性、つまり在るという状態を指示することである。
たとえば泣くという行為において、状況に応じ、さまざまな形態があるのだが、涙を流すというある種の記号化で、泣くということを示すことはできる。セーヌ川でマルト役のイザベル・ヴェンガルテンが両手で顔を覆って泣くショットがあるのだが、50回ほどショットを繰り返し、最後にはイザベルが本当に泣いてしまったという。これは泣くという心象を再現するためではなく、泣くという行為をオートマティックに進行させるために、50回というショットを必要としたのである。
作家は、自らの映画作法を自作の映画内で言及することはないのだが、『白夜』では、珍しくモデル論を展開したと思えるシーンがあった。
第2夜、ジャックのアパートに突然の訪問者が現れる。ドアを開けると、美術学校時代のクラスメートと告げる男がいる。彼は自分の作品を撮った1枚の写真を見せる。そこには小さな染みが写っており、彼は「染みは小さいほど世界の広がりを暗示する。染みとは見えず、存在しないすべてが見えてくる」と述べる。〈染み〉という、作家が想定し得ない不作為な現象、それが現代の作家性の表象であるということなのだろうか。彼は「名人芸の時代は終わりだ」とも言う。このシーンで奇妙なのは、訪問者が画家であることがあらかじめ分かっていたかのように、制作中の絵画を、部屋に招き入れる前にすべて裏返すことである。訪問者である画家には自作の絵画を見せないという、いわば訪問者の美術論を拒むジャックの絵画、という構図から、戦後のアートに対し、手づくりを重視するブレッソンの批判と捉えられることの多いシーンである。
実はそればかりではなく、このシーンに、ブレッソンのモデル論の重要性が潜んでいるといえないだろうか。訪問者は、「事物から存在をはぎ取り、限定したある空間に宙づりにする行為。分かるかい?」とも述べる。映画の文脈で読みとれば、「事物から存在をはぎ取り」「宙づりに」するのが演出であり、そうされるのが俳優(ここではとりあえず俳優と記す)である。俳優は演出家の中でたえず宙づりにされる存在であり、宙づりにされることにより世界を再現するのである。
俳優とモデルとを明確に識別するブレッソンはこう述べる。「俳優とは内部から外部へと向かう運動であり、モデルとは、外部から内部へと向かう運動である」。そして「重要なのは彼らがわたしに見せるものではなく、彼らが隠しているもの、そして特に、自分のうちにあるとは自分自身思っていないものである」(『シネマトグラフ覚書』)と。決して事物から存在をはぎ取ることではない。モデル(=在る)とは、表面的な見せるということ(再現)ではなく、すでに在るものの表出であるいえる。第2夜に語られる数分のシーンには、ブレッソン的であるものが見事に潜んでいると思えるのだ。
《ロベール・ブレッソン『白夜』Vol.3(最終回)…回避する視線、分裂する視線…》に続きます。
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)
いいなと思ったら応援しよう!
![amateur🌱衣川正和](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/166740850/profile_ee3eac599993cd3353c941188d3d2e9b.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)