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【映画評】 アンドレイ・タルコフスキー『ローラーとバイオリン』 +『僕の村は戦場だった』 素晴らしき哉併映(覚書)

(写真『僕の村は戦場だった』)

『ローラーとバイオリン』
が中編(46分)ということもあり、 長編『僕の村は戦場だった』と併映されることが多い。同一監督の併映には、単独上映では気づかないことが見えてくる。そのことを中心に、この2作品の感想を述べてみたい。

『ローラーとバイオリン』(1960)

『ローラとバイオリン』

本作はタルコフスキーが全ソ国立映画大学卒業作品として製作した第一回監督作品。第9回カンヌ国際映画祭で短編パルム・ドールを受賞したアルベール・ラモリスの『赤い風船』(1956)に刺激されたと言われる作品である。大学同窓の盟友アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキーとの共同脚本である。

卒業制作といえば通常は20分ほどの作品を想像する。金銭的にも力量としても観客を飽きさせない時間は20分。だが、本作は上映時間46分。長編ほどの長さはないものの、なにゆえ短編ではなくこの長さを彼は選択したのか。

タルコフスキーは次のような趣旨の発言をしている。
「ショットの長さを引き延ばすことは新たな質と観客の関心の強度の創世につながる。」

とすれば、彼はすでに映画学生時代から、持続と強度を作品内部に組織化しようとしていたことになる。

本作を見てさらに興味深く感じたのが遠・近の意識。たとえば映画冒頭のアパートの階段下のショット。
遠近に配置した7〜8人の少年たちを広角レンズで捉えた構図である。これは見る者の視線を分散させることでもあり、後のタルコフスキー作品にも見出すことのできるショット……本作ではフランス映画で見るいたずら小僧たちの遊戯のようなようなショット……なのだが、同質なもの(本作の場合、子どもたち)をフレーム内に遠近に配置する構図である。これは次回作である長編第一作『僕の村は戦場だった』の白樺林の遠近構造でも見い出すことができ、すでに卒業制作からフレーム内での遠近の圧縮という、構図に対しての意識は強かったように思われる。

本作の林檎のショットでも同じことが言える。少年サーシャ(イーゴリ・フォムチェンコ)と少女(ニーナ・アルハンゲリスカヤ)の間に置かれた林檎、そして林檎への奇妙な接近のショット。これは『僕の村は戦場だった』のトラックの荷台に積まれた大量の林檎と荷台の上の少年イワンと妹、そして林檎の落下へと繋がる。併映はやはり興味深い。

水、廃墟、鏡というイメージも卒業作品である本作に現れており、のちのタルコフスキー作品を予感する瑞々しいショットの連なりを見ることができる。

映画冒頭のアパートの階段下のショットだが、7〜8人の少年たちを遠近に配置、そして配置を乱すかのようなフレーム外からの不意のインという、見る者の視線の予期せぬ分断構図。分断のイメージはタルコフスキーの作品に多く見られるけれど、このようなショットが映画大学の卒業制作からあったのかと感動したことを付け加えておきたい。

『僕の村は戦場だった』(1962)

映画冒頭のシーン
「カッコーの鳴く美しい村で、明るい陽光と戯れる12才の少年イワンはママから水をもらう」

『僕の村は戦場だった』

ストーリーのみを記すならばこんな無味乾燥な表現になるのだろうが、このシーンの美しさには銃後のイメージがないだけに、逆説的に残酷である。その直後に、銃声が響き、主人公である少年イワン(ニコライ・ブルリャーコフ)は両親と妹をドイツ兵に殺され一人ぼっちになる。

夏の美しい陽光の中で、花々の間を舞う蝶と戯れるイワン。あたかも蝶に誘引されるかのように浮遊する幻想的なイワンのショット。気づくとママがバケツで汲みあげた井戸水があり、イワンは顔を埋め水を飲む。イワンはママ(イリーナ・タルコフスカヤ)を見上げる。微笑むママ。だがその瞬間、ママの顔が強張り、銃声が響く。

続くショットは暗い室内で悪夢から目覚めるイワン。そこに美しい陽光とママはない。イワンは敵の陣地に潜んでいるのだ。

これはママをドイツ兵に殺害されたイワンの回想だったのか。陽光のイワンと暗い室内のイワン。タルコフスキーは陽光に戯れる少年イワンとママから始めることで、戦争による時間の分断を描こうとしたに違いない。ママを失った後のイワンの表情、ここにも時間の分断という残酷さがある。この表情は、終盤のシーンでのドイツ軍の処刑リストにあるイワンの敵兵を睨みつけるような写真で反復再現される。

本作で特筆したいのは、映画最後のシーン。儚いほどの美しさが映画冒頭のシーンと繋がのだ。ママから水をもらうイワン。ママは立ち去り、そしてイワンは友人たちと遊ぶ。かくれんぼの鬼になったイワン。彼は妹を見つけ追いかける。その先には朽ちた木があり、カメラの目は急速に木に接近しフレームを覆い尽くし暗転する。

永遠にループする時間。ループしながらも、再生ではなくずれてゆく時間。そこには遮断がある。この終盤に入る前のシーン。司令室にいるホーリン大尉(ワレンチン・ズブコフ)とガリチェフ中尉(Ye.ジャリコフ)。ガリチェフはカタソーニチ(S・クルイロフ)が直してくれた蓄音機にレコードかける。そこに軍医のマーシャ(V・マリャービナ)が別れの挨拶にくる。ガリチェフはメガネの男についてマーシャに問い糺すが、マーシャは誤魔化そうとする。そのときレコード針が同じ溝をトレースし音楽は先へと進まない。ガリチェフは針を置き直そうと蓄音機の所に戻るのだが、その隙にマーシャは部屋を出て行く。ホーリンは外の静けさに気づき、「聞こえてるか?  聞いてるか? なんて静けさだ」とガリチェフに問う。ベルリンが陥落し、戦争が終結したのだ。

ここには時間の3つの遮断がある。レコードの溝のキズによる音楽の進行の遮断。それによるマーシャに問い糺すことの遮断。そして戦争の終結という遮断。

ひとつのシーンでの3つの遮断。タルコフスキーの奇跡的な時間描写である。遮断といえば、遠近による遮断もある。「遠」で人物のフレームアウトの後、「近」で同一人物のフレームイン。これは空間の遮断による遠近の接続でもある。

『ローラーとバイオリン』+『僕の村は戦場だった』
前者の少年サーシャと少女の間に置かれた林檎、そして林檎への奇妙な接近ショット。これは後者のトラックの荷台に積まれた大量の林檎と少年イワンと少女、そして林檎の落下へと繋がるっていて、併映は興味深い。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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