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小説「ファミリイ」(♯36)

 Hとは同じ班を組んでよく飲むに行くようになり、すっかり友人としての仲は出来上がっていた。僕は彼女に魅了されていたが、彼女は僕を友人の一人としてしか見ていないことが僕には悔しかった。でも友人同士としての関係もまた心地良く、Hと早急に男女としての関係になろうという気もまた起きなかった。

 僕はそもそも良い会社に就職をしたいという気持ちからW就職予備校に通ったのではなく、失われてしまった人との繋がりを、癒しを求めて通った。不純な動機だからこそ、翌年の僕の就職活動は大惨敗に終わった。テレビ局も広告代理店もすべて一次面接で落ち、制作会社はいくつか最終面接に進出したものの、結局すべて落ち、内定を一つも獲ることができなかった。生来の口下手に加えて二十五歳という、年齢が高かったせいもあるだろう。僕は社会から「不要人物」という認定を受けたのだ。

 大学院の研究室の仲間たちは、僕が入社を熱望していたテレビ局に早々に内定を決めた人間もいて、都心のベイエリアの巨大なビルの側面にしがみつく僕を地上から見上げあざけ笑った後でそのビルを素通りし、次の進出地を決めていった。

 僕はビルから滑り落ち、滑落死することもできずに生憎な健康体で進出先の無いまま迎えた夏、僕は父から「お前、就職はどうなったの?」とどやされた。そのころ内定を獲っていないのは僕もHぐらいなものだった。

16.大学院時代(3)

 十一月の終わりを迎えた。僕が内定を取れなくて諦めの境地にいたとき、今よりも十キログラムほど肥っていたが体力には満ち、肌艶も比較にならないほど瑞々しく、美しかった。あのころの僕は、視野さえ広ければ様々な物事に挑戦できた。十一年も前の二十五歳という精力に満ちた二度とは返らない刻を僕は、視界狭窄がゆえに自分の可能性に蓋をし、つまらない就職という物事にこだわっていた。

 その後、ほどなくしてネットでホームページを見つけた放送作家事務所に応募し、拾われた僕はそのままフリーランスとして生きていくことになった。収入に波はあったものの、ここまで続けてこられてキャリアも十年目を迎え、途中途中、仕事でさまざまな生き方を見てきた今となっては逆に視野が広くなりすぎてしまったようで、あの二十四、五歳の遠大な夢を抱いては現実の高き壁に打ちのめされるといったこともなく、実現不可能な物事に対してはただ「そういうものだ」と自然に受け入れる嫌らしい処世術を身につけている。最底辺の暮らしを許容できれば、この国であればどのようにでも生きていくことはできる。人生への達観は僕の胸から熱さを奪い取り、足を浸ければぬるま湯の、その先に急流も存在しない細く長く続くぬかるんだ川筋を、ただ何の変哲もない死地たる水の途切れ目へと僕を向かわせる。

 いまや性欲もあのころと比べて減退し、色情が湧き出る機会、その噴出ぶりも日に日に減退している。結婚もしていないのに、一般的な男たちの男としての衰退の道を、僕も例に漏れずに進んでいる。〝自分は浮世離れしている〟という僕の勝手な思い込みは、波風立てずに働くための手練手管を覚えるがごとにやはり思い込みでしかなかった悲しさを僕に味合わせる。作家としての才と世間を生き抜く才は両立し得ないことだ。だから僕は作家としての大成すらも一種の諦めがある。と言って家族を持つこともできない僕は、三十六にして生きていないのだ。

 Hはいまどうしているのか。三十三歳になる彼女もまだ独身だった。Hは僕と出逢った当時から交際していた故郷の同級生と、二十代の間ずっと交際していたが、四年ほど前に別れてしまったらしい。

 Hは大学卒業後、故郷に恋人とともに戻ってラジオ局に勤めていた。彼女はもともと東京での就職を希望していたので、二年経つと広告代理店へと転職して東京へやって来た。恋人も彼女の後を追おうとしたようだが、転職からはや二ヶ月でHは、彼女がもう一つ働きたい場所に選んでいた沖縄へと転勤することになった。このHの転勤希望は彼女の恋人からすれば存外のことなので、諍いが起きたようだ。Hは恋人に別れを告げられた。

 実はその前、大学時代にHの方が恋人を一度突き放し、僕も通っていた就職予備校の生徒と交際をしていたことがあった。Hとその恋人は長期的な恋愛によくある破綻と再生を何年にも渡って繰り返していた。そのような結束が強固ではない恋愛は付けいられる隙が多く、Hは沖縄でも複数の男性と関係を持っていたらしい。この事実を並べていると、なぜ僕の隣に彼女がいないのか、僕の瞳にはうっすらと熱い液体が侵食してくる。Hだけが不埒な行動をとっていたわけではなく、恋人の方も同様だった。彼の方は福井で女性と関係を持っていたようだ。Hは僕に対して仕切りに、

 「あの人は絶対浮気しない」

と言っていたが、同じ男とし僕は、そんなことはあり得ないことがわかっていた。性的魅力が十人並みより少し良い程度の僕ですら、街頭ナンパをしていたこともあるし、それで複数女性と一夜の肉体の契りを結んだことがある。こんな僕ですらこのようなことが出来るのだから、僕より魅力に溢れた男が、いや仮令魅力が人並み以下だとしても、男という生き物である限り「生涯、一人の女性を愛す」など出来るはずがないのだ。条件さえ整えば、男は妻帯者であっても女性と関係を結ぶ。それが男だ。

 最終的にHは恋人に別れを告げられた。その数ヶ月後、彼女は東京へと再び転勤でやって来た。しかしHは、東京に来てからも僕に転勤してきたことを連絡してくることすらなかった。僕はそのころ、意中の女性がいたためにそこまで気にしていなかったが、その態度にはあからさまに僕を避けているように見えた。彼女から不意にLINEを通じて連絡が来たのが、二年前の四月のある満月の夜、午前零時ごろ、彼女が東京にやってきて一年以上経過した後のことだった。

「元気?」

という言葉から始まって、

「長いこと会ってないね!」

というメッセージが僕の元に届いた。

 Hは僕に会いたがっている。「会いたい」と言いたいけれど、好意を抱く男への羞恥心と長らく自己都合で連絡をしなかったことによる自責の念から直接的な言葉を投げることができない。女性のよくある気まぐれということは百も承知だが、気まぐれだとしても僕に対してHが異性としての興味を抱いたことは間違いなかった。

 出逢ってから十年のときを経てHがついにHが僕を男として認めてくれた。いや、突然僕を男として見るということはないので、それまでにも僕が彼女の中で幾度か恋愛をする候補として挙がっていたのだろう。しかし、その度に僕は候補から外されていたのだ。もちろん、僕に情欲を抱いた裏には三十を超えたHの、結婚への打算もあったに違いない。背景はどうであれ、;ここで僕が「飲みに行こう」という一言さえ入れれば、僕とHは……。

 しかし、彼女が僕に情欲を抱いた時季は僕にとって都合が悪かった。僕には当時、一年半に渡って好意を寄せている女性がいたのだ。僕は、Hがついに僕を好きになってくれたことへの芯からの歓びに浸りながらも、「飲みに行こう」とは返さず、はぐらかして自分からLINEのやりとりを終わらせた。いま、Hの元に駆けていくのは、こんなちっぽけな僕にある良心が許さなかった。
その数週間後、その当時想いを寄せていた女性からの拒否によって僕の恋は終わった。

17.社会人一年目

   大学院二回生の秋から僕は、放送作家事務所に所属して、授業が無い日に仕事を手伝うようになった。業務は。見習い作家がテレビ番組の企画の立て方、作り方を学ぶ一環として行う、「リサーチ」と言われる業務だ。バラエティ番組や情報番組の企画内で取り扱われるお店や豆知識などを主にネット上から調べて、資料にまとめて提案する業務である。別名「ネタ出し」とも言われていて、このリサーチ業務で放送作家見習いは作家としての嗅覚を養っていく。リサーチは作家の見習いが行う業務でもあるが、作家は目指さずリサーチを専門職としている人もいて、リサーチ会社もある。

   僕が入った事務所には大手のリサーチ会社から独立した人間が自身のオフィスとして間借りをしていて、新人をリサーチで鍛えるシステムができていた。僕にはその説明は事務所の社長から一切されていなかったが、人手が必要ということなので言われるがまま、訳も分からないままに仕事を始めた形だ。

    修士論文の研究発表を終えて大学院で修士号を取得してからは、平日週五日、毎日事務所に通ってリサーチ業務をこなした。同世代の給料からは劣るものの、実家であれば十分裕福に暮らしていけるだけの固定給を毎月もらって僕は暮らすようになった。

    研究室や同じ就職予備校に通っていた仲間たちは大方一流企業に入社した。研究室の同窓にも就職予備校の同窓にも、僕が憧れていたテレビ局本体への入社を果たした者が何名かいた。僕だけがフリーターのような、そうでないような、中途半端な状態で社会に放り出された形だ。よく言えば高等遊民であり、当時、髪を伸ばしていた僕は、サイドが首筋まである長髪をたなびかせて同窓生との飲み会に参加した。同窓生たちは、まるで就職することが当たり前かのように、口々に僕の長髪を見て疑問を投げかけてきた。

   その度に僕はフリーランスであることを説明したが、彼らが僕に聞くときの取り澄ました上目遣いからは、嘲笑が読み取れた。彼らはきっと僕から「無職」、「フリーター」という言葉を引き出したかったのだろう。僕も居づらくなってしまい、毎回早退したが、僕が帰った後、彼らはきっと僕を「敗者」として、自分より下の位置にいる人間と看破してせせら笑っていただろう。

 若いころの僕は、学業を終えたら必ず会社に入らなければいけないという日本式教育の強い洗脳下にあり、僕は自分自身を社会から爪弾きになった者として自分で縛りつけ、抜け目なく大企業に入社し人生の王道を歩もうとする彼らを嫉み、憎んだ。その一方で、仕事は毎日九時間も働けば終わり、土日は必ず休みが取れた。仕事内容も僕に合っていたので、僕は彼ら人生の成功者には無い「時間」というものをふんだんに持っていた。日々細かな厄介事には見舞われたがそこまで苦労するものではなく、この仕事は嫌いではなかった。

 ただし、両親は僕がどんな仕事を始めたのか、またその雇用形態までは全く理解しようとしなかった。

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田中雅(みやび)
読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。

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