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とある雑談と、歴史の話
図書館で働きはじめて4か月が経ちそうだ。
だんだんとやることを覚え、苦手だった接客に慣れていき、図書をよく見られるようになった。今日は、いつものカウンター業務にくわえて「図書の修理」をおしえてもらった。折れたページのしわをのばす単純な作業なのだが、これがまたおもしろい。
本にかかわるしごとを、と期待して就いたこの職場。本を貸したり返されたりするだけでなく、「もっと本とふれあいたい」。「本の声を聞いてみたい」。そんなことをかんがえながらカウンターにいた。
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とある男性が、この本を手に僕のもとに持ってきた。貸出をしたいようだ。
貸出処理はもちろんすぐにおわる。ただ僕は、男性が去ったあとも「大津事件」の文字があたまからなぜだか離れなかった。
■ 大津事件
明治24年(1891)の滋賀県大津市。来日中だったロシア皇太子(のちのニコライ2世)が、同県巡査の「津田三蔵」によって刺傷された事件(動機については諸説あり)。
明治政府は日露国交の悪化をおそれ、いつ報復にくるやもしれない緊迫した状況のなかで即刻津田を死刑にしようとした。しかし、大審院長(いまの最高裁長官)の「児島惟謙」は頑としてこれを認めない。
「『謀殺未遂罪』に死刑を適用することはできない。大逆罪、つまり主君や親を殺すような人倫にそむく罪ならまだしも本件はこれに値しない。そもそも外国皇族にかんする刑法は存在しない。」
こうして児島は、行政(明治政府)や外国からの圧力に耐え、津田は死刑をまぬがれた。いまではあたりまえにある三権分立、その「司法権の独立」のはしりとなった有名な事件である。
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この事件は、日本史の教科書にはかならず載っている。
ただ、やはり疑問ものこる。児島は「護法の神」というその呼び名にふさわしい純粋な正義感のもちぬしだったのか。いっぽうで少ししらべてみると、宇和島出身の児島は、薩摩と長州出身者が占める明治政府に反発のきもちがあったからだ、とも書かれていたりする。
じっさいの彼の心情はわからないし、どちらでもいい。
いま読んでいるべつの本に、印象にのこるこんなフレーズがあった。
「天才は、『その後あたりまえになる日常』を生みだす。後世の人間は、あたりまえがゆえにそのありがたみに気がつかない。」
今でいうあたりまえが、あたりまえではなかった時代。そのときに人間がどう動くのか、これを知ることが歴史のおもしろさでもある。
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僕は、千葉県出身で、千葉の高校でこの事件を習った。
正直、「大津事件」といわれても高校生の僕には、大津が滋賀県の中心地で、琵琶湖の南にあって、というところまでの予備知識がない。先生もそこまでは教えてくれない。だから、イメージがしにくいのだ。
東日本やそれ以外の学生と、近畿圏のそれでは、日本史という教科では「地域のアドバンテージ」がおおきいよなぁ。
ただ僕が、その後に京都に憧れを抱いて今があるのは、まちがいなく東日本で暮らしていたからなんだよなぁ。となりの芝生ではなく、「500キロ西の都は美しい」という状態。
はたして「僕が京都に生まれていたら」、どうなっていたかを比べられないのが残念なのだが。
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