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そしてまた、書く瞑想を

いまふたたび、書くモチベーションが再燃している。

原因は、ある。前々から、noteでずっと「もっと書きたい」とモヤモヤしていた。そうであればじぶんのことなのだから、優先順位をちゃんときめて、真っ先にやればいいとの自覚もしていた。

ただ、怖かったのだ。また以前みたいに“書かされているだけ”になってしまうことが。

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京都・祇園の繁華街にそびえる臨済宗大本山の建仁寺けんにんじ

枯山水庭園。
法堂にある『双龍図』。来年の辰年で注目されそう。

京都に住んでいると、拝観料をおさめてまで寺にいくことはめったにしない。しかし、その独特のふんいきや匂い、まだ僕は未体験なのだが“朝の坐禅”とかにもやはり惹かれる。

ただ、まぁ。ひんぱんにお寺を訪問することはできないわけだが、“Voicy”がある。

このかたは、建仁寺塔頭・両足院りょうそくいんの副住職さん。数か月まえにぐうぜんこの番組をみつけて、「こんなのがあるのか」とおどろいた。いまでは、これを聴くのが毎朝の僕の習慣になっている。さながら、自宅で聴ける法話。まだ夜が明けるまえに聴いたら、それは“聴く瞑想”そのものだ。

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まさに、今日書きたいのはそこにある。

東凌とうりょうさんもよく言っているのだが、「坐禅や瞑想にきまった型や作法はない」らしい。もちろん、何時間も無理してすわりつづける必要はない。本来、“楽な姿勢で呼吸を意識すること”、“いまこの瞬間を感じる”が瞑想の本質なのだけれど。日本人がすわっていることに馴染み深かったために、そういうイメージがついてしまっているだけなのだとか。

であれば、立ちながらでも、歩きながらでも、極端なことをいえば家事をしながらでも瞑想はできる。包丁をつかって野菜をきる音、水で手をあらったときの感触、庭そうじのときに薫る草木の匂いなどを、とぎすませて感じることでそれが瞑想になるのである。

ほう、なるほどなぁ。

じゃあ、「書くことで瞑想をしたい」と僕はおもった。

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noteを書いているみなさまに、改めて言うことでもないのだが。

書くってけっこう大変ですよね?
あたまや体を使いますよね?

うん、僕はそうだとつねづね感じる。でも、そうであればそれだけ、じぶんじしんに集中している証拠でもある。ネタをかんがえているときはじぶんじしんを振り返り、まわりの情景・人間関係をかえりみて、書くときはひたすらに手とあたまをうごかす。

いまだにnoteは手書きで下書きをすることが多い。

これを、活かさない手はないなと。“書と禅”という響きもいい。

できることなら、このまま毎日noteは書きつづけたいのだが、やはり数字のためには書きたくない。連続投稿記録や、「書かないとフォロワーが減るかも」というようなよけいな雑音は排除して書きたい。

無理せずに、それでも心をととのえるつもりで、みずからに課したい習慣でもある。

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