極端な私

私は、またもや新しい自分を発見した。新しいと言うよりは、もしかしたら『より具体的に自分を理解した』イメージ。下記にて具体的に紐解いていく。

タイトルにもある通り【極端な私】だからこその性格だと思う。それは、自分が直面する出来事だったり会話だったりの話。たぶん私は、下記の2択が多いことを実感した。
①【他人に丸投げする】=【全く考え無い】
②【自分で深く考え過ぎる】=【狭い視野で考え続ける】
きっと、③があるとするならば『程よく相槌したり、受け流したりする』みたいなイメージかもしれない。ただ、私は①と②が基本的に多いから疲れるんだと思った。特に最近の私はそんなことばっかりだ。

ブログで発信している通り、この1ヶ月で、大きな変化を経験する私。家を買うって決まってからというもの、【自分のことなのに決めきれない!】みたいなことが多発している。また、【希望や願望は漠然としたもの】が多く、【具体的に欠ける】事態も同じくだ。後の夫婦生活を左右すると言っても過言ではない、この現状。そんな真っ只中の私の思考回路は、①と②しかない【両極端】なことを自覚した。

①【他人に丸投げする】=【全く考えない】

そもそも、家自体の購入に対して、積極性に欠けていた私。『お金を出すのは旦那だから』とか、私は『ここって決まれば、その環境に合わせていくから、今現状の希望は無い』とかで、具体的な意見は、たぶん何も言わなかった。【自分も一緒に住む家なのに】って気持ちが、『とにかく乏しかった』と自覚している。立地、ハウスメーカー、近隣の環境、金額についてとか。また、『私が家事をする上での効率性を考えり』だとか。
旦那に意見を求められても、私は、本当に何も言わなかった。私が具体的に意見するというよりは、「旦那が選んだ所に私は住むよ。だから何でもいいよ。むしろ選んでくれてありがとうね。」みたいな感覚だった。私の中に『悪気は全く無い』んだけど、極端な話、本当にそんな思考だった。強いて言うなら、『この家で生活が始まったら、私に出来ることは何だろうか』って考えるくらい。恥ずかしい話、具体性も何も無かったに等しい自分に、反省の念しか生まれない。

そして、実際に住む家が、いよいよ決まった。内見に行ったり、契約の話を聞いたりする時、基本、旦那と一緒に行った。それなのに、実際に見ても、話を聞いても、たぶん何も感じない、思わないみたいな印象。それは「極端過ぎるでしょ!」って言いたくなるけど、本当にそうだった。私の中で、『選ぶと言うよりはここで生活するんだ』って気持ち。『旦那が選んでくれた家だから』っていう気持ちの方が、やっぱり大きかったと思う。『これから一緒に住む』ってイメージはあっても、『一緒にローンを返済していく』って感覚も薄かったかもしれない。と言うよりは、『私個人的な金銭管理・節約について』の意識でしか無かった。
しかも、家を一緒に選んだって胸張って言えない私。そりゃそうだ。だって私が、【旦那に丸投げ状態】で過ごしてたんだからって話。


②【自分で深く考え過ぎる】=【狭い視野で考え続ける】

生きていると、上記の①のような『他人に丸投げが出来る』時もあれば、『どうしても自分が決断しないといけない』時もある。

②について多いのは、間違いなく後者。『どうしても自分が決断しないといけない』時の話。
『私はこうしたい!』を【押し通すだけの自信と理由】を『延々と探し続ける』んだと思う。また、【相手の意見と比較して、押し通せない自分】に萎える。【萎えないで過ごすための希望】を『自分なりに探し続ける』ってな感じ。
本当は、【自分が納得する+相手に伝えるだけの具体的な材料】が欲しいだけ。『その通り叶うかどうか』は、さて置き『現状を知ること』が大事。
とはいえ、『んなら何のために現状を知る必要がある?』って話なんだけど、正にその通り。『知ったところで今の私には関係ないじゃん?』ってな訳なんだよね。どうせ『私の話じゃない』し、『未来のことなんて誰も分かんなくて当たり前』なんだから。それこそ【考えるだけ時間が無駄】って思考。

上記のような思考回路を、しばらく継続する私。【他人に丸投げ】とか【他人任せ】とかを『やめよう』と自覚した私。きっと今の私は、『自分に目を向け続けること』が定着した。そうして、改めて気づいたことがある。

❶自分の意思を押し通すことよりも、【相手にとって従順とか、都合がいい様に振る舞う自分】の方が『好き、楽、自分らしい』とか思っている。
❷その癖、【相手が自分の思うような反応じゃない】と自分が萎える。『相手の反応を、自分が勝手に想像して勝手に萎える』だけ。
❸んならば、反対に考えた時に言えること。それは、【自分の意思に従って自分で責任を取ることを恐れている】だけ。だから、『相手に甘えることを望んで』しまう。

つまりは、結局のところ、『私はこうしたい!』を押し通すくらいなら、『そういうもの!』って思い込む方が楽。=相手に「こうしなさい」って言われる方が楽。その方がすんなり話を受け入れて、【従う】だけ。『自分で責任取らなくていい』と思っている。そんな【安易な考え】な自分を自覚した。
ぶっちゃけ言うと、そんな【安易な考えの生き方】なんて、『子供でも出来る!』って話。要は【自分の問題】だし【自我】とか【自己主張】の問題。確かに私は、そういうの類の【自分の価値観】は、20数年間ほとんど無意識だった。けれど、今の私は意識的に何でも【自分に目を向ける努力】が出来る。【私が望む私】には、『今の所は程遠い』し、『少しでも近づきたくて必死』だ。けれど、そんなのは、どうだっていいのかもしれない。【私が望む私】なんてものは、結局は私次第で変化し続ける。

『どうしても私が決断しないといけない』時の話。私はきっと、【後から振り返った時】に『違った、失敗した』ってなることを極端に恐れている。【私だけでなく、それに関わる周りの人達】からの声も。でも、そんなことは、【後にならないと判断出来る訳が無い】って話。【その時の私】は『それを望んだだけ』って【納得すること】が『できれば良しじゃない?』ってこと。
初めから『失敗を恐れ続けるから』こそ、【自分で自分の人生を生きられない】みたいになってくる私。【ここ最近の私】は、『特に生きにくいな』と思うことが多かった。散々ブログで発信しておきながら、実はスッキリしないことが重なっている。その【根本の理由】は、間違いなく【考えても答えが出ない事】ばかりを『延々と考え続けている』ってこと。

もっと程よくと言うか、たぶんだけど。【私】にとって【どの程度の重要】な『出来事なのか、話なのか』ってこと。それを【自己判断すること】が【私の課題】なんだろうなって気がした。だって、結局は【私の人生】なんだもんね。【私】にとっての【距離感】を【私の判断】で『向き合えるようになりたいんだ』と改めて思う。
【人間関係】とも『なんだか似ている』感じがする。あくまでも【私】がベース。【無理なく私なり】に向き合って解釈していく。まずは【私の判断基準】を、『少しでも明確にしたい』ところだ。①のような【他人に丸投げ】とか、②のような【自分1人で考え過ぎる】とか。【両極端】な【私の思考回路】を変えて生きたい。




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