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傷はなくても痛いって認めていいんじゃない
傷のない痛みの落としどころを探してる。
嫌な話、このままこいつの前でリストカットをしてやろうか!とかゴツゴツのアスファルトを血がにじむまで怒りに任せて殴り続けてやろうか!とか階段からすっ転んでやろうか!とかそういうことを私はよく思うタイプ。したことはないけれど。
そういうときは決まって悔しさでパンクしそうなときだ。
人からかけられた心ない言葉。
ユーモアのない不快な冗談の連鎖。
傷にならない程度の嫌なスキンシップ。
どれも傷のない痛みばかり。
でも普通に怪我するよりも嫌なものばかり。
傷のない痛みは耐えることが多い。
傷ついたって言えずに笑って流したり、歯を剥き出しにして「やめろ!」と言えなかったり。
そんな自分も大嫌い。
そんなことを私にするお前も嫌い。反応できない自分も嫌い。そんなことをポロッと吐き出して「そんなこと気にすんな」で済ますお前も嫌い。
自分の痛みを蔑ろにする世界に顔を真っ赤にして地団駄を踏む。そして大人げなく自傷に走ろうとする。
カッターを取り出すところまで、包丁を手にかけようとするところまで、外に出るために服を引っ張り出すところまで。
そこで止まるのは馬鹿らしくなるから。こんなことして訴えても私の気持ちは伝わらないんだよと冷静担当の私がメンヘラ担当の私をなだめてくれる。
冷静担当の出番が多すぎて、最近はメンヘラ担当が顔を出すよりも「まあそういう人もいるよね」ともの分かりいい担当にバトンタッチすることの方が多くなってきている。
真正面から自分の痛みに向き合ったらどうにかなってしまいそうだから、そもそも痛みを受け入れないようにしてしまいたいのだ。
でも、そーんなことで簡単にガードできたら苦労はしない。
「そんな人もいるよね」と言って相手の価値観を汲もうとしても、お前も私の価値観尊重してくれよ?!とジョジョのギアッチョばりのスピードで激おこ担当が顔を出してくる。
痛みとの付き合い方はどうにもこうにも難しい。
歳を重ねれば重ねるほど、生身の傷ができることも減る。生身の傷をつけられることなんてほとんどない。見えない傷の方が多いしのに、なんだかどこか見える傷より蔑ろにされているように見える。
膝を擦りむいたら「大丈夫?痛かったねえ!」と言って介抱してくれるのに、心の傷を話しても「そんなのみんなも経験してるって」で片付けられがち。
分かってんのよ。そんなことは!みんなも経験してることくらい!分かってんの!!!!
ただ痛みを認めてほしいだけ。
痛みを一度でいいから尊重してほしいだけ。
最初の一回でいいから、「痛かったね」と痛みに目を向けてほしいだけ。
これを読んで、「あまちゃんだ」と思う人もいることでしょう。
でも、同じように痛みを認めてほしい人たちも結構いるんじゃないでしょうか。
だから、「あまちゃん」言う人に特別遠慮はしない。
痛いもんは痛い!
いたーーーーーーい!
そうやって声には出していきたい。
なんなら先陣を切って声を張り上げていきたい。
そして、私がそうしてもらいたいように、痛みを話してくれた人には、ひと言目に「それは痛かったね」と伝えられる人間でありたい。
傷のない痛み、我慢しすぎずちゃんと癒していきましょう。
蔑ろにされていい心の傷なんてない。
放置していい傷なんてない。
「痛くて当たり前だから我慢しなくちゃ」じゃなくて、「痛くて当たり前だからちゃんと痛いって泣いて傷を癒していこう」っていうふうに共有し合いたい。
笑って幸せに生きていても心に傷なんてたくさんある。何もないように見せて、夜、独りで啜り泣きながら傷に絆創膏を貼って、それ以上は見ないふりしちゃう人たちを、そうすることしかできないでいる人たちを、私は知っている。
見せていい。独りで痛いのを抱え込まなくていい。
これまで本人が見たくても見てこれなかった傷に私も一緒に寄り添いたい。その痛みが癒えるまでその痛みを一緒に背負いたい。
痛い中、頑張ってきたよねとこれまでを讃えたい。
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