住吉大社・住吉公園(神々と花と蝶と)
九條です。
※今回は、写真多め(18枚)、本文少なめ(約2,000字)の記事です。^^;
この前の日曜日(2023年5月21日)の大阪は、久しぶりに1日中いい天気の日曜日でした。
そこでお昼前から、堺市(大阪市の南側に隣接している街)に住んでいる友達と住吉大社へお参りし、その後に住吉公園へ行きました。
住吉大社へはウチから自転車で数分。歩いても行ける距離なのですが、鳥居の前で友達と待ち合わせということだったので、私はウチの近所を走っている路面電車の阪堺電車に乗って出かけました。住吉大社は、阪堺電車の「住吉鳥居前」電停を降りてすぐ目の前です。
住吉大社(住吉っさん)へお参り
一の鳥居前で一礼をして境内地へ入ります。とても広くて緑豊かな境内です。
住吉大社のシンボルともいえる赤くて大きな反橋(太鼓橋)を渡ることによって心身ともに清めてから、御神域内へと進みます。
※なお、許可なく勝手に神社の社殿を撮影することは神様に対してたいへん失礼にあたるので、今回は社殿の写真は撮影していません。ご了承ください(さすがに住吉大社クラスの大きな神社様ともなると、神職さんに社殿を撮影する許可を得る勇気がありませんでした、すみません🙇💦)。
住吉大社とは
住吉大社は摂津国一之宮で、平安時代に編まれた『延喜式』に記載されている式内社。全国にある住吉神社の総本社であり、摂津国の総鎮守です(氏神様ではありません)。
住吉大社の本殿四棟は我が国最古級の神社建築で、「住吉造」と呼ばれています。それは遥か昔の弥生・古墳時代の頃の建築様式の面影を留めているもので、国宝に指定されています。
その縁起は『日本書紀』によると、神功皇后が創建したと伝えられています。中世(南北朝期)に編まれた『帝王編年記』によると、その創建年は神功皇后摂政11年(西暦211年頃)とされています。ですから1800年以上もの歴史があることになりますね。
遣唐使と住吉大社
また、平安時代に編まれた『延喜式』によると、古くは「住吉坐神社」(すみのえにいますじんしゃ/すみのえにますじんしゃ[※1])と呼ばれ、もともとは海の守護神(航海の守り神)でした。なので、かつて遣唐使は必ず住吉大社へ参って航海の安全を祈願したと伝えられています。
※1「住吉」は古くは「すみのえ」と読みました。
住吉大社の御祭神とご利益
住吉大社の神様は、ただ単に船による航海の守護神というだけではなくて、人の一生(人生)が大きな航海とされ、家内安全、商売繁盛、縁結びなどなど、人が生きて行くうえでのあらゆる事を守ってくださると言われています。とても大きな力のある神様で、住吉大社は「大阪最強のパワースポット」とも言われています。
御祭神は、
の四柱の神様です。
けれども私は小さい頃から、住吉大社の神様は1人の女の神様(女神)だというイメージをずっと抱いて参りました(今でもです)。両親や祖父母などからそのような話を聞いたわけでもないのに、すごく不思議です。私は住吉の神様に、
とお祈りさせていただきました。
住吉公園へ
住吉大社からまっすぐ西へ150mほど行くと(阪堺電車の線路を渡って、南海電車の高架をくぐると)すぐに住吉公園があります。この住吉公園は、もとは住吉大社の境内地でしたが1873(明治6)年に大阪府営の公園として整備されました。大阪府内では最も古い公園のひとつです。
上の写真のルピナスの花の先にモンシロチョウが1頭とまっているのですが、お分かりでしょうか?
住吉の高灯籠
この住吉公園の西側には有名な住吉の高灯籠があります。かつてここは浜辺(住吉江/住吉津)で、この高灯籠は鎌倉時代創建と伝えられている日本で最初(最古)とされる灯台です。
この住吉高灯籠は、1950(昭和25)年に四国・近畿地方を襲ったジェーン台風によって上部の木造部分が倒壊したために解体され、その後も残っていた基礎の石垣部分も道路拡張のため撤去されました。
しかし1974年に鉄筋コンクリートで往時の姿が復元されました(高さ約21m)。なお、もとの位置は現在の高灯籠からさらに200mほど西とされています。
おわりに
この住吉大社・住吉公園の辺りは、いまは住宅地などになっていて、その景色からかつて浜辺だったということは想像できません。
けれども私はいまでも、この辺りに行くと、なんとなく海の気配を感じます。とても不思議な感覚です。
【写真】
すべて2023年5月21日 九條正博 撮影
【参考にした資料】
『新修大阪市史』新修大阪市史編纂委員会 1996年
©2023 九條正博(Masahiro Kujoh)
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