「いま、ここ」を真剣に生きる
前置き
前回『自分とか、ないから。』をオススメしたと思うんだけど、それからの話。
本屋に赴いて、心理学と哲学の棚をフラフラ。
なぜ哲学や心理学なのかというと、そこに救いを求めていたから。
偉大な先人たちが一生やその人生の大半をかけて「生きる意味」について考えた。
きっと今自分が悩んでいることにも明確な対策や出口があるに違いないと。
タイトルと細かく章分けされたわかりやすい形式に惹かれ、加藤諦三『自分のための人生を生きているか』という本を購入。
後から振り返りやすいように付箋を貼りながら、なるほどと感じた部分は別紙に書き写すこと2.3日。
読了の末に最も印象に残った
この一文。
一社目でまだ働いていた頃だったか、すでに休職していた頃だったか、僕は一冊の本を買ってほとんど読まずに放置していることを思い出した。
岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』という本である。
「嫌われる勇気か、確かにないな」とこれまたタイトルに惹かれて購入したものの、対話篇形式(複数の人物の会話によって進行される叙述形式を採用した文学・哲学作品)に「早く結論を教えてほしい」というもどかしさを感じ、読むのをやめてしまっていた。
この本はアドラーの「個人心理学」について書かれたもので、奇遇にも僕の大好きな東海オンエアのしばゆーが『第一回ジャイアン選手権』という動画の中で一度名前を出しており、ほんの少しだが聞きなじみのあるものだった。
この一冊の本との再会は僕の人生にけっこう眩しめの光をもたらした。
目的論との出会い
僕にとってまずひとつ衝撃だったのは「あらゆる結果の前には、原因がある。」という原因論の否定だった。
例えば僕は「親からの期待を裏切るのが怖い(原因)から、自由に進路を決められない(結果)。」と考えていた。
しかし目的論では、「目的が先にあり、その目的を達成する手段として感情をこしらえている。」と考える。
つまり僕は「自由に進路を決めたくないから、親からの期待を裏切るのが怖いという感情を捏造していた。」ということになる。
読み進めてものの10分くらいで唐突に崖から突き落とされたような気分。
普通に「は?」と思った。
自由に進路を決めたくない人なんてこの世にいるものか。
自由に進路を決められていたらどんなに幸せだったことか。
本はこう続く。
残酷なことを言ってきたと思ったら、希望を説いてくる。
DV彼氏にぶたれて、優しくされている気分になる。
つまり親に逆らうのが、期待を裏切るのが怖いという感情やそもそも親に過剰に期待されてきた、干渉されてきた過去があったとしても関係ない。
その感情や過去をどう解釈するか次第で自分は変われる?
ここでいうライフスタイルというのは性格というよりも人生のあり方・世界観という意味に近いらしい。
性格というと先天的なイメージを持つが、人生のあり方や世界観と言い換えれば確かに解釈次第でいつでも変えられるイメージになる。
ではなぜ変えられるものを変えずに放置してしまうのだろう?
変わることによるリスク(より状況が悪化するとか)や自身の過去否定への恐怖や迷い。
その結果、自ら「変わらない」決心をしている。
じゃあ変わるにはいったい何が必要なのか?
すべては解釈次第
ここで本は一つの章を終え、第二章へと突入する。
動かしようのない客観的な事実ではなく、自在に操ることのできる主観的な解釈こそが自身を苦しめている。
ここで僕は『自分とか、ないから。』で知った一つの考えを思い出す。
「空(くう)」だ。
言い回しが難しいが要するには変わらない本質なんてものは存在しない。
全ては「場合による」ということ。
身長165センチを「小さい」とみるのは男性の平均身長171センチと比較するから。
身長165センチを「大きい」とみるのは女性の平均身長158センチと比較するから。
面白いのはアドラー心理学と仏教とで悩みに関する考え方が異なること。
アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩み」とする。
仏教では「すべての悩みは成立しない」とする。
ここで僕はふと思った。
哲学や宗教と呼ばれるものは世界や物事の解釈の一流で、そこに正解や不正解はない。
僕たちは自身に合った既存の哲学や宗教を選び取る、もしくは新たな哲学や宗教を自分の中に作り、それを通じて世界や物事を知覚する。
いわば哲学も宗教もメガネのレンズのようなものの一つといえるのではないか。
それを通じて視界が開けたように感じ、生きやすくなったと感じたとき、どうしても誰かに広めたくなったり、教えたくなったりする。
だから宣教師や講師が存在する。
この記事もそんな初期衝動によって書き始めた。
けれど広めることも教えることも実はあまりに危険なことで、自分にとって最適なレンズだったとしても、他者にとって最適かどうかは別問題である。
たとえ同じレンズでも、視界がぼやける人もいるし、見えすぎて負担がかかることだってある。
「禅」の達磨大師が言葉を捨てたり、弟子を取ることを頑なに拒絶したりしていたのも、ソクラテスが自ら著書を残さなかったのも、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』に出てくる哲人が考え方を強要してこないのもきっと広めることの危険性を十分に理解していたからなような気がする。
極論、広めることも伝えることも意味がないのかもしれない。
だからこの記事を読んでくれた人も「ふーん」って思ってくれればそれでいい。
ちなみにあくまで2024年7月30日の僕はこのレンズをかけているだけで、それ以降の僕がどんなレンズをかけているかは不明。
視力と同じで世界や物事の解釈の仕方も変わる。そしたらレンズも変わる。
noteという形で残すことが間違っていると思ったらこの記事消すつもりだし。
承認欲求の奴隷
冒頭の自分自身であることの勇気という部分に立ち戻る。
評価という表現は少し仰々しいかもしれないが、僕は人に期待されている行動は何かをほとんどの瞬間考えて生きてきた。
その結果、自意識の領域がとんでもなく広がり、他人の目をすごく気にするようになった。
「前髪をしきりに気にする」
「SNSでの投稿は何重にも事前チェック」
それこそnoteだって何回も読み返して変じゃないかな?とか思ってるし。
他者からの「理想の自分」への期待に応えていく一方、心のどこかで「本当の自分」を大切にしなきゃという意識が異常に強まり、「不変の本当の自分」を作り出してしまったんだと思う。
「いつも優しくて怒らない僕」
「人がやりたくないことも率先してやる僕」
どれだけ優しい人だって満員電車で怒鳴り散らかすサラリーマンは嫌だ。
どれだけ献身的な人でもポイ捨てされたゴミ、全部は拾わない。
「ぜんぶ」「いつも」「みんな」、この辺の単語は危険過ぎる。
現代文や英語の記号問題ならこういう極端な表現は疑ってかかるのに、現実世界の自分の話となると途端に難しい。
むしろ主観的な解釈しだいでは、
サラリーマンが横でブチギレてるのに気にしない僕、冷静。
素通りしてもいいのにわざわざ捨ててあげる僕、良い子。
ともなりうるところを、
そんなサラリーマンにイライラしている今の自分、全然余裕なくて嫌い。
あ、今ゴミ落ちてたのに拾わなかった。いつも献身的とか嘘つき。
自分が自分を承認してあげられないという倒錯的な状態。
結局生きるのを難しくしているのは親でも他人の目でもなく、自分だったということだ。
嫌われる勇気
生きるのを難しくしていたのは結局自分だった。
とはいえ人間は社会的な生き物だから、どうしたって人と比べてしまう。
「人はできるのに、自分はこれができない。」
「人は持ってるのに、自分はあれをもってない。」
じゃあまずはどうしたらいいのか。
生きやすくするための第一段階は「自分を認めてあげること」だ。
自己肯定ではなく、自己受容というのが重要なポイント。
虚栄心や虚勢によって得られるものは結局、仮初の安心感、優越感だということだ。
いまできない・持っていないことは変えられなくても、できるように持てるように頑張るかどうか、頑張ろうと思えるかどうかは自分の力で変えていくことができる。
それを無駄だと人に思われてもいい。
その人がどう思うかまで問題を背負わなくていい。
それは変えられないものだから。
もうちょっと具体的に説明したいと迷って筆が止まった時、なんとなくYoutubeを開いたら椎木知仁さんが『家族とニュース』という曲のMVをUPしていた。
失敗も失態も含めて自分。
才能やセンスも含めて自分。
幸せも不幸せも含めて自分。
そう思えるからこそ、じゃあこれからどうするかを考えることができる。
自己受容ってたぶんそういうこと。
「嫌われる勇気」は「嫌われてもいいから自分勝手に生きる!」と言い切るための免罪符的な役割ではなく「まずは自己受容しなきゃを思い出させてくれる」お守り的な役割だ。
物語から舞台へ
僕はこれまで人生を一つの長い物語だと思っていた。
物語は過去と今と未来とを因果で結ぶから、ストーリー性が生まれる。
そしてそのストーリー性に想いを馳せ、魅了される。
しかし因果で結ぶ物語は「原因論の産物」であり、目的論を前提とするここにおいては否定されるべきものだ。
別に人生を何かに例える必要はないかもしれないが、
仮に例えるのなら物語でなく何になるのだろう?
旅も舞台も大切なのは、
「終えることではなく、その瞬間を楽しみながら歩き、演じること」
「あいつ、自分よりも旅を楽しんでて悔しい…」
「あいつ演技うまいな。それに比べて自分は…」
と、横にいる人を「敵」とみなすのではなく、むしろ「旅仲間」や「共演者」としてみる。そして一緒に全力で楽しみながら歩き、演じる。
旅や舞台の前後を気にせず、気にも留めず、
全力で起き、食べ、今やるべきことをやり、全力で寝る。
全力で愛し、愛され、そして全力でサボる。
それが「いま、ここ」にいる僕の有する哲学。
終わりに
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
形にして残すことが正しいか間違っているかと迷った瞬間もあったのですが、「いま、ここ」にいる僕が残した方がいいと思ったため、ここに書き記した次第です。
「沈黙は金、雄弁は銀」
その通りだと思います。
だからいつか僕も沈黙できるように今は語っておきます。
哲学の意味を検索してみると、こう出てきます。
自分自身の経験から作り出す人生観・世界観が哲学である(②の意味)ならば、やはりアドラー心理学や仏教はじめ各種宗教を丸々コピーペーストして信じ込むことは黄色信号だと思います。
哲学や宗教はしばしば禁止や否定をしますが、全員がそれを実践する必要はないってことです。やりたきゃやるし、やりたくなきゃやんない。
そして世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問としての哲学(①の意味)を学ぶのってめちゃめちゃ面白い!
参考文献
加藤諦三(2023)『自分のための人生を生きているか』大和書房
岸見一郎・古賀史健(2013)『嫌われる勇気』ダイヤモンド社
岸見一郎・古賀史健(2016)『幸せになる勇気』ダイヤモンド社
しんめいP(2024)『自分とか、ないから。』サンクチュアリ出版