「継続」と「連続」は別物ということ これでもいいのだを読んで
私は隠れ完璧主義者である。
だから日記を書き始めても、書く時間が取れなく空白のページが出来るともう嫌になってしまう。その日記帳に空白があるということは、完璧な日記ではない様な気がしてしまうのだ。継続することに意義があるのは分かるし、一日二日書かなくたって、飛ばして書いてしまえばいい。そしてそこからまた再スタートを切ればいいのに、やる気が出なくなって二月半ば頃でやめてしまった日記帳が家にはたんまりある。(完璧主義者なので、一月一日から書き始めたがる、もしくは四月一日)
そんな言い訳をダラダラ書いてみたけど、今noteがそういう状態になっているということ。
一ヶ月連続投稿を目標にしていた時は意地でも書いていたけど、一旦書かない日ができてしまった途端これだ。
・noteにテーマを設けない
・何時に投稿してもいい
・文章の量も問わない
縛りを設けると、破った時に書きたくなくなってしまう自分を知っているから上記の約束事を胸に書いているのだけど、これだもの。
一応なんか書くことないかなぁ、と頭の中でこねくり回してはいたのだ。
でも頭の中でいくら突いても、捏ねても、叩いても、文章って生まれないんだよね。実際にnoteを開いて、投稿するを押して、真っ白い画面に向かって初めて何かが生まれる。今みたいに。
そんな時に読んだ一冊のエッセイ本。
ジェーン・スー著 これでもいいのだ
その中の一編「スタンプカードの罪」にこれだったのか、とストンと腹に落ちた。今まで言語化出来ていなかったモヤモヤが解読出来た喜びたるや。
ちなみにここでいうスタンプカードとは、小学生のころ朝開催されていたラジオ体操に出席したらスタンプを押してもらえる、アレである。
小学生の頃ジェーンさんはスタンプカードを埋めるべく、毎朝意気揚々とラジオ体操に足を運び、並んでいくスタンプにドーパミンをじゃんじゃん出していたけど、それが一日でも休んでしまった途端にやる気がなくなってしまうと、この話の中で述べていた。
そうなのだ、とこの部分を読んだ時膝を打った。
こんなにも私の状況を表してくれる文章があるだろうか。まさしく私は連続記録更新が目的になって、それが損なわれるともうやる気を無くしてしまう。考えを深めたり文章を書く力を養いたいと思って始めたnoteだったのに、続けるために手段として連続投稿を目指して、それがいつの間にか目的になってしまっていた。まさに手段の目的化。
そして今、連続性の消滅に嫌気が差して、書くことが億劫になっていたこのタイミングで出会えたこの本に、感謝。
そして背中を押してもらったと思って、また書き始めたい。
継続のために、この空白の10日間は休息の時だったのだと信じて。
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