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【誇り】福島民友新聞の記者は、東日本大震災直後海に向かった。門田隆将が「新聞人の使命」を描く本:『記者たちは海に向かった』

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「新聞記者としての矜持」が発揮された、東日本大震災での福島民友新聞の奮闘

「紙齢をつなぐ」という耳馴染みの薄い言葉と、新聞人にとっての矜持

紙齢をつなぐ―― 一般には全く馴染みのないこの言葉の意味をご存知の方がいるだろうか?

私は本書で初めて「紙齢をつなぐ」という言葉を知った。恐らく、何らかの形で新聞に関わっている人でなければ触れる機会のない言葉ではないかと思う。

「紙齢」とは、新聞が創刊号以来、出しつづけている通算の号数を表すものである。「紙齢」は、毎日の新聞の題字の周辺に必ず出ている。
読者はほとんど目に留めていないが、これを「つなぐ」ことは、新聞人の使命とも言うべきものである。

著者は冒頭でこのように書いている。私は正直、「大げさではないか」と感じてしまった。私が新聞に関わりがないからだろうか、「紙齢をつなぐ」ことがそこまで重要なことには感じられなかったのだ。

しかし読み進める中で、本書に登場する福島民友新聞の面々が、繰り返し「紙齢をつなぐ」ことに言及する。

「紙齢が途切れるというか、新聞を出さないということは読者の信頼を失うことですから、これが新聞社にとって一番あってはならないことなのです」
仮に明日、ライバル紙の福島民報は出たのに福島民友が出ないとすれば、「会社の存亡」にかかわる問題だった。当然、地元紙は、避難所にいる被災者にも新聞を届けるべきだろう。そんな時に新聞そのものが「発行できない」などという事態は、そのまま会社の「死」を意味するといっても過言ではなかった。

紙齢をつなぐというのが、われわれにとっての責務ですからね。これは、読者に対する責任です。大震災の状況を読者に届けるというのが新聞の使命だと思っていますので、なんとしても新聞を届けたいという思いがありました。当時、われわれには、二十万読者がいましたからね。その責任を果たせて、ほっとしました。

もちろん、平時であれば「紙齢が途切れる」のは大問題だと思う。新聞が当たり前に発行できる状況下で、何らかの理由によってそれが出来なくなってしまうのであれば、それを「会社の存亡」と捉えるのも分からなくはない。

しかしこのように口にしているのは、未曾有の災害だった東日本大震災でのことなのだ。にもかかわらず、

ああ、こんな大震災の時に新聞が出なかったら、会社自体が潰れるかもしれない、と思いました。

という感想を抱くのは、ちょっと凄まじいことのように思う。結局のところ、この「紙齢をつなぐ」という感覚については、本書を最後まで読んでも私には上手く捉えることができないものだった。

新聞人としての想いが共通だからこその震災時の行動

ただ、その感覚そのものが理解できなかったとしても、「皆の想いが共通していること」による連帯感みたいなものは、本書から痛いほど伝わってきた。多くの人が、「1人の人間」としてどう振る舞うか以上に、「新聞人」としてこの震災を記録しなければならない、と思い立つのである。

それでも、請戸に行ったのは、たぶん“僕が撮らないと、誰も伝えられない”という想いがあったからだと思います。

あの三月十一日、十二日の二日間、僕は純粋に、新聞記者として動いたと思うんですよ。あの時、会社と連絡がとれなくなっていました。ということは、会社の仕事としてではなく、記録として、誰かが、この震災の被害を書き残さなければいけなかった。それは、会社に記事として送ることができるとか、できないとか、そんなことではなく、ただ純粋な気持ちだけでやったことを、思い出します。誌面に反映されるかどうかではなく、純粋に“記録者”として動いた二日間だったんじゃないか、と思うんです。会社というものも超えて、あの二日間、記録者として特化して、あそこにいたのではないか、と。そして、自分には、それしかできなかったのではないかと思います。

このように語る者たちは、当然、東日本大震災を生き延びたからこそ、当時のことについて語ることが出来ている。結果だけ見れば、彼らの行動は正しかったと言っていいだろう。

しかし全員がそうだったわけではない。震災の日に、1人の若い記者が命を落としている。

だが、この若者には、ほかの犠牲者とは異なる点がひとつだけあった。それは、彼の死が「取材中」にもたらされたということである。

彼の名は熊田由貴生。福島民友新聞の記者2年目、24歳の若者だった。

あの人が死んだのか。彼の記事は、切り抜いて今も手帳に挟んで持っている。温かい記事を書いてくれる記者だった。

読者の1人がそんな風に語る場面がある。誰からも愛され、記者としても頭角を現しつつあった最中の死。本書では、そんな若者の死を中心に据えながら、福島民友新聞の面々が東日本大震災の日以降に何を見て、どんな経験をしてきたのかが丹念に描き出されていく。


熊田の死に、誰もが後悔の念を抱いている

私が、この作品を書くために取材を始めた時、福島民友新聞は困惑し、ある意味、狼狽した。
取材に応じていいものかどうか、見方によっては、恥ともいうべき事柄も含め、世の中にそれが明らかにされて、果たしていいものかどうか。
おそらく、そんな迷いと逡巡があったからだろうと思う。

著者がこんな風に書くほど、福島民友新聞にとって熊田の死は大きなものだった。もちろん、東日本大震災によって多くの人が亡くなっている。福島民友新聞社員の家族・親類にも命を落としてしまった人はいただろう。しかし熊田の場合はやはり、「取材中に亡くなった」という特殊さがある。何かが違えば、死なずに済んだのではないか。誰もがそんな風に感じてしまうのだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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