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【幻惑】映画『落下の解剖学』は、「真実は誰かが”決める”しかない」という現実の不安定さを抉る

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映画『落下の解剖学』が突きつけるのは、「『客観的な正しさ』にはたどり着けない」という、私たちが生きる社会が有する不安定さである

非常に興味深い作品だった。「人が死ぬ」という以外は大きな起伏のない物語なのだが、その「死」を巡って様々な状況が描かれる作品で、淡々と展開される割に惹きつける力の強い物語だったなと思う。

というかそもそも、「よくもまあこんなシンプルな設定・展開で映画を撮ろうと考えたものだ」という感覚が結構強かった。「その『死』は殺人なのか」が特にスペクタクルなわけでもない展開によって描かれていくだけの物語であり、人によっては「退屈」とさえ感じるんじゃないかと思う。そんなシンプル過ぎる物語で勝負しようと考えたことに驚かされてしまったのだ。

さて、これは書いてもネタバレにはならないと思っているのだが、私は割と早い段階で、「本作は『事件の真相を明らかにするタイプの作品』ではない」と理解していた。何故そう感じたのかは上手く説明出来ないのだが、「『殺人か否か』に対する答えはきっと出ないのだろう」と考えていたのである。恐らく観ていれば、大体の人がそう感じるのではないかと思う。

では一体何に焦点が当てられているのだろうか? その辺りの説明のために、まずは本作の内容をざっくり紹介し、中心的に描かれる「死」についても触れておくことにしよう。

映画『落下の解剖学』の内容紹介

舞台は、家族3人が住む、フランスの雪深い山奥に建つ家。妻のサンドラはよく知られたベストセラー小説家で、夫のサミュエルは作家を目指しつつ教師の職に就いている。2人はロンドンで出会い、そしてサミュエルの希望に沿う形で、彼の故郷であるフランスへと移り住んできた。そんな夫は、この地で民宿を始めようと建物の改装に勤しんでいるところだ。また、移住してきたサンドラはフランス語があまり得意ではないため、2人は普段英語で会話をしており、さらに1人息子のダニエルは4歳の時に遭った事故のせいで視力を基本的には失っている。そんな一家を、悲劇が襲う。

事件の日、作家を目指しているという学生がインタビューのためにサンドラを訪ねてきた。しかしその最中、階上で仕事をしているサミュエルが爆音で音楽を流し始める。会話もままならない音量のため、仕方なくインタビューを諦めてもらうことにした。サンドラは彼女に再会を誓う。

その後、愛犬スヌープの散歩に出かけていたダニエルが戻ってきた。しかし、家に近づくやスヌープは大声で吠え始める。目の見えないダニエルにはすぐには状況が理解できなかったが、しばらくして彼は、雪上で横たわっている父親を発見し、大声で母親を呼んだ。サンドラは救急車を手配したが、その後サミュエルの死亡が確認される。

検視の結果、サミュエルの頭部からは傷が見つかり、総合的に判断して「死亡する前に殴打された可能性が高い」と推定された。であれば、殴られたせいでベランダから落ちたのだろうか。あるいは、サミュエルの落下地点付近には物置があり、地面に落ちる直前にその壁にぶつかった可能性も考えられた。事故、殺人、自殺、どの可能性もあり得なくはない。

警察は、サンドラを起訴すべきかどうか慎重に判断を行った。サミュエルが落下した時、家にはサンドラしかいなかったのだから、疑われるのも当然だ。そこで彼女は、友人の弁護士ヴァンサンに助けを求めた。ヴァンサンはまず友人として彼女にアドバイスをし、その後、サンドラが殺人容疑で起訴されてからは弁護士として協力するのである。

裁判では当然、「事故なのか、殺人なのか、自殺なのか」が議論された。しかし、両者とも状況証拠はこそ提示できはするものの、「何が起こったのか」をはっきりと推定させるような証拠を出せはしない。そのため、傍証となるようなサンドラ・サミュエル夫妻の様々な過去が炙り出され、法廷の場に並べられていく。

さらに、この裁判を一層ややこしくする要素が存在した。それは、「サンドラの小説は基本的に、彼女の『実体験』がベースになっている」という事実である。彼女はこれまでにも、「父親との関係」や「息子の事故」などを自身の小説に取り込んできた。そのため裁判においては、「夫婦関係を明らかにするため」という理由で、彼女の小説がある種の「証拠」のように扱われていくことになるのだ。

また、「彼女がプライベートを小説に書いている」というのは恐らく広く知られた事実であり、さらに彼女はベストセラー作家である。そのため、この事件・裁判の行方に世間も注目しているというわけだ。

果たして、裁判の行方はどうなるのか?

「真実は当事者にしか分からない」という点に焦点が当てられていく

本作で何を描こうとしているのかは、友人の弁護士ヴァンサンのセリフから推察することが出来るだろう。

ある場面でサンドラはヴァンサンに、「私は殺していない」と訴える。友人としてはサンドラのこの言葉を肯定してあげたかったに違いないが、今後の推移のことも踏まえてだろう、弁護士である彼はこんな風に返していた。

問題はそこじゃない。

では一体何が問題なのか。それについては、別の場面でヴァンサンがサンドラに伝えるこんな言葉から理解できるだろう。

事実かどうかは関係ない。
君が人の目にどう映るかだ。

つまり、「サンドラが夫を殺したように見えるか見えないか、それだけが問題だ」というわけだ。そしてこの点こそが、本作の中心的なテーマであると私には感じられた。つまり、「『正しさ』とは『見つけるもの』ではなく『選ぶもの』である」みたいなことだ。

この点については、後半でさらに印象的なセリフが出てくる。具体的な状況には触れないが、ある人物が次のように言う場面があるのだ。

客観的に判断するには情報が不足している時は、極端な2つの選択肢の内のどちらかに決めるしかない。

そして突き詰めて考えれば、このシーンと、この後に続く展開こそが、本作の「核」と言っていいのだと思う。

少し前のことにはなるが、私たちは「真実相当性」という言葉をよく耳にしていたはずだ。松本人志の性加害疑惑が報じられる際によく使われていた言葉である。大雑把に説明すれば、「仮に報道内容が間違っていたとしても、報道機関が『それを真実だと信じるに足る根拠』を有しているなら、その『誤った報道』は『名誉毀損』には当たらない」という話だ。

そしてこの「真実相当性」という考え方はそのまま、「裁判」という仕組み全般に当てはめられるものだと思う。一般的にどの程度理解されているのか分からないが、「裁判」というのは決して「真実を明らかにする場」ではない。「防犯カメラの映像」や「凶器についた血痕」など明白な証拠が存在するなら話は別だが、先に触れた性加害など「密室で行われた出来事」などの場合は客観的な証拠を入手するのは困難だ。そうなると、「実際に何が起こったのか?」は当人にしか分からないということになる。

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