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【肯定】価値観の違いは受け入れられなくていい。「普通」に馴染めないからこそ見える世界:『君はレフティ』(額賀澪)

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子どもの頃から「価値観の違い」に悩まされてきた

「普通」には馴染めなかった

子どもの頃から、周りと感覚が合わなくて凄く苦労しました。周りの人たちが笑っている理由が理解できないまま、なんとなく予想して笑っていたこともあるし、みんなが当たり前だと感じることに違和感を抱くことがどうにも多かったです。学校では、はみ出し者ではなく、従順な人間が評価されるでしょう。だから私は、はみ出している部分を上手く隠して、なんとなく従順なフリをしながらやり過ごしていました。

大人になる中で、こんな風に考えるようになります。私だけクジラなんじゃないか、と。周りのみんなは魚で、だからずっと水中で泳いでいられます。でも私は哺乳類だから、呼吸するために時々海面に顔を出さなきゃいけません。同じように海の中で生きているのに、なんで自分だけ、というような感覚です。

周りに合わせようとして海面から顔を出すのを止めたら窒息してしまいます。でも、周りと違うという風に思われたくないから、できるだけ海面から顔は出したくない。そういうせめぎ合いをずっと続けながら子ども時代を過ごしていました。

でも、このままの状態は続かないと、どこかで思っていたはずです。やっぱり辛かった。魚のフリをするのが大変でした。クジラは魚じゃないから、どうやったって魚と同じにはできない。このままずっと、魚のフリをして、魚から外れないように生きていくなんて無理だと分かっていたと思います。

だから私は、「普通」から外れることにしました。具体的には、大学を中退し、就職活動をせず、引きこもり、自分がそれまで積み上げてきたと思うすべてのものを一旦リセットしました。

「普通」から外れてみて良かったこと

私は未だに、「普通」から脱落するというその判断を後悔していません。「普通」から外れるのをもっと先送りにしていたら、私はもっと大きなダメージを負っていたかもしれません。私の中では、ギリギリこのタイミングしかない、というところで決断できたと考えています。

「普通」から外れてしばらくは、もの凄く不安でした。私に何か才能らしい才能があれば、その道で一旗揚げようと思えたかもしれません。しかし、私にはそんなものはありませんでした。自分が社会の中で生きていくイメージができないまま、恐る恐る前に足を踏み出しつつ、どうにかこうにか生活をそれなりに成立させられています。

そして、とりあえずの不安から脱することができたからこそ、「普通」から外れたことの良さも見えてくるようになりました。

「普通」という言葉を私は「多数派」と同じような意味で使っています。だから「普通」であるということは、同じような価値観を持った人間が周りにたくさんいる、ということです。これはある意味では羨ましい。私は、似たような価値観を持つ人間を探すのが本当に大変で、大体の人間に対して違和感の方が強く感じられてしまいます。そういう意味でも生きていくがしんどいと感じています。

ただ、「普通」から外れたことで、「普通」の中にいる怖さも同じ部分にある、と感じました。

周りに似たような価値観の人が多いと、「何故自分がその価値観を持っているのか」について思い巡らす機会は非常に少ないでしょう。これは要するに、「自分の持っている価値観を下支えする思考が存在しない」ということです。

このことを、怖いとは感じないでしょうか? 世間の「普通」が何らかの理由で大きく変動してしまえば、自分が信じる(信じているという意識を持たないままで信じている)価値観の根拠が失われてしまいます。コロナウイルスはまさに、それまでの「普通」から「ニューノーマルと呼ばれる普通」への移行を否応無しに進めましたが、これによって、自分が持っていた価値観に揺らぎが生じたという人も世の中に結構いるのではないかと感じています。

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