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【人生】どう生きるべきかは、どう死にたいかから考える。死ぬ直前まで役割がある「理想郷」を描く:『でんでら国』(平谷美樹)
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死の間際まで「役割」がきちんと存在する人生こそ、理想的ではないだろうか?
「老衰」では死にたくない
私は時々、「どんな死に方が理想的か」について考えるのですが、真っ先に「老衰」は選択肢から外れます。私は「老衰」について、「身体の機能が衰え、今まで出来ていたことが出来なくなった状態で死んでいく」とイメージしていて、それは最も避けたい死に方なのです。
そうやって理想の死に方を考える度に私が結論するのは、
健康な状態のまま、「自分は死ぬのだろう」と悟ってから死ぬ瞬間までの時間が限りなく短い死に方
がベストだ、ということです。具体的には「事故死」でしょうか。他にも「脳溢血」や、父親の死因である「致死性不整脈」など、「自分は死ぬんだ」とさえ感じられないほど瞬間的に死を迎える、というのが私の理想です。
そして、そう感じてしまう理由には、「自分のためなんかに、誰かの時間を使わせたくない」という感覚があります。「介護」が一番分かりやすいですが、他人の時間を消費してまで生きるのはしんどいなぁ、と私はどうしても感じてしまうのです。
だからとにかく、「健康なまま死にたい」といつも思っています。長生きには興味ありませんが、「健康なまま死ぬ」ために、健康に良さそうな食べ物を食べたりするほどです。
そんな考え方、まったく理解できないという人も多いでしょうが、共感できる人も多少はいると思います。実際、こういう話を身近な人間にしてみると、半々とまでは言いませんが、多少なりとも私の考えに賛同してくれる人もいるからです。
「どう死ぬか」は「どう生きるか」を考えること
でんでら国の爺婆たちは、生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく
「生き生きと死んでいく」というフレーズは、なかなか面白いでしょう。小説の設定や中身については後で触れますが、本書『でんでら国』では、「死ぬ直前まで、コミュニティの中で役割が存在する」という世界が描かれます。
特徴的なのは、怪我をしたり、身体が弱っていたりする人間にも、きちんと役割があるということです。
私が「健康なまま死にたい」と考える理由は、今の世の中に対して「健康ではない人間が担える役割が限られている」と感じるからです。病気で長く仕事を休んだり、怪我をして働けなくなったり、障害を負って不自由さを抱えてしまったりすると、どうしても「出来ること」が減ってしまいます。さらにそれだけではなく、介護や介助など、他人の手を借りなければならない状況に陥ってしまうわけです。
私はどうしても、そういう状況が得意ではありません。まあ得意な人なんかいないでしょうが、特に私は、いわゆる「貸し借り」の「借り」が多くなってしまうと、心苦しくなって自滅してしまうのです。それが善意からのものであれ、お金が介在するものであれ、「誰かに何かをしてもらってばっかり」という状態はあまりに辛いですし、耐えられる自信がありません。
もし自分が、怪我や病気あるいは老いなどによって、それまで出来ていたことが出来なくなったとして、それでも何か役割がある、と信じられる世の中であれば、自分が弱っていく現実や、身体の不自由さを抱えながら死に向かっていく状況も許容できるかもしれません。
ただ今はそういう社会ではない以上、やはり私は「健康なまま死にたい」という感覚を捨て去ることはできないだろうなぁ、と思います。
こんな風に私にとって、「どんな風に死にたいか」を考えることは、「自分はどんな風に生きている状態が好ましいのか」を考えることに繋がっていくわけです。皆さんそうではないでしょうか。
「でんでら国」は理想的な環境
この作品で描かれる「でんでら国」には爺婆しかいません。60歳になったら、それまで住んでいた村を去り、「でんでら国」に移り住むと決まっています。そしてその共同体の中で、それぞれが死を迎えるまで重要な役割を担うことになるわけです。
「でんでら国」の素晴らしい点は、「60歳になったら必ず『でんでら国』に移り住むと決まっていること」でしょう。そして誰もが、「『でんでら国』には自分が果たすべき役割がきちんとある」と理解しています。
つまり若い頃から、「『死ぬ直前まで、自分にはきちんと役割がある』と思って生きることができる」というわけです。
これは非常に理想的な環境と言えるのではないかと私は思います。
普通、人生の晩年を自分がどんな風に過ごしているかなど、なかなか想像できないものです。65歳で「ケンタッキーフライドチキン」を創業したカーネル・サンダースのように、晩年こそ輝く人もいるでしょう。しかし逆に、若い頃はバリバリ働いていても、定年を迎えたら友達もいない寂しい老後を過ごすかもしれません。
しかし「でんでら国」の場合には、身体が弱っても病気をしても、死ぬまで自分にはきちんと役割があると、若い頃から信じて生きていられます。これは非常に重要なポイントではないでしょうか。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
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