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【違和感】平田オリザ『わかりあえないことから』は「コミュニケーション苦手」問題を新たな視点で捉え直す本
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学校教育に関わる劇作家・平田オリザが、その経験から「コミュニケーションの問題」を語る『わかりあえないことから』
物凄く面白い作品だった。本書では、著者自身の経験を起点に、様々な形で「コミュニケーション」の話題が取り上げられる。その一部を挙げてみよう。
・社会や企業で求められがちな「コミュニケーション能力」への違和感
・著者が教育現場で実践してきた「演劇的メソッド」
・自身が教授として勤める大阪大学での演劇的教育の実践
・医療現場や子どもたちとの会話などにおける様々な実例
・「演劇における言葉」の論考と、演劇が「社会で求められるコミュニケーション能力」の育成に役立つ理由
・「コミュニケーションをデザインする」という試み
講談社のPR誌での連載をまとめたものということもあって、恐らくその時々の興味・関心などをリアルタイムで取り込んでいたのだと思う。散漫と言えば散漫かもしれないが、むしろ私は「『コミュニケーション』を軸に、よくここまで多様に話題を広げられるものだ」と感心させられた。
さて、著者の中心的な関心は、まえがきに書かれているように、
コミュニケーション教育に直接携わる者として、そこに感じる違和感を中心に書き進めてきた。
である。つまり、本書の核心には「違和感」が存在するというわけだ。日常生活の中で、「コミュニケーション」に対して何らかの「違和感」を抱いてしまうという人は、本書の記述の何かには間違いなく関心を持てるだろうと思う。
さて、普段から私は本を読む際に、良いと感じた文章に線を引き、そのページの端を折る(ドッグイヤーする)のだが、本書はほぼ全ページをドッグイヤーしてしまった。それぐらい、ほとんどの内容に惹かれたし、感心させられたというわけだ。しかし、そのすべてを紹介するわけにはいかないので、この記事では、「教育現場におけるコミュニケーション教育」に絞って内容に触れたいと思う。本書の内容の中で、最も紹介しやすく、さらに最も本質的な話だと感じたからだ。「学校教育」の話は、本書の話題の一部でしかないので、全体を知りたいという方は是非、本書を読んでいただきたいと思う。
学校教育における、「異質な他者がいない」という大問題
著者はまず、「若者が直面している、コミュニケーション上の問題点」をはっきりさせようとする。そしてその過程で、「意欲の低下」と「『人格教育』としてのコミュニケーション教育」の話に触れていく。まずは前者から書いていこう。
著者の認識はシンプルに、
いまの子どもたちは競争社会に生きていないから、コミュニケーションに対する欲求、あるいは必要性が低下しているのではないか。
という文章に集約されるだろう。ここで言う「競争社会」は決して、社会のことだけを指すのではない。例えば本書では、一人っ子の家庭内でのこんなやりとりが例示される。子どもが「ケーキ!」と言うだけで、親がそのままケーキを出してしまうというのだ。本来なら、「ケーキがどうしたの?」と問うことがコミュニケーションに繋がる。しかし、一人っ子が多くなったため、親が子どもの言葉を、子どもが発した内容以上に汲み取ってしまうことが多くなっているという。まさにこれも、「コミュニケーションに対する意欲の低下」を象徴する話と言えるだろう。
少子化の影響は学校にも及んでいる。既に地域によっては、小学1年生から中学3年生まで、1学年30人1クラスだけの「クラス替えが存在しない学校」が多くなっているという。子どもの数が少ないから仕方ないのだが、この状況は必然的に、子どもたちの「コミュニケーションへの意欲」を低下させることになる。例えば先生から、「太郎君、今から3分間スピーチで何か喋って」と言われても、太郎君には喋ることがない。その理由を著者は、シンプルにこう書いている。
表現とは、他者を必要とする。しかし、教室に他者はいない。
確かにその通りだろう。9年間もずっと同じメンバーで授業を受けているのだから、必然的に「他者」がいなくなってしまうのである。どれだけ「技術」や「テクニック」を教えたところで、そもそも「意欲」が生まれないのだから、「コミュニケーション」に対して気持ちが向かうはずがないと著者は指摘しているのだ。
しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子供の側にないのなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足している。
ここまでの話で大体理解できると思うが、本書における「コミュニケーション」とは、「異質な者とも関われること」を意味している。仲間内でワイワイ騒ぐようなことではなく、「他者といかに関係を築くか」に焦点が当てられているというわけだ。
著者の先の指摘に対しては、なるほどと感じないだろうか。そしてこの指摘は学生だけではなく、私たち大人にも関係してくる。私たちも、容易に「他者」を排除できる生活を送れるようになっているからだ。
SNSが発達したお陰で、「趣味趣向や価値観が合う人」と関わりを持つことが容易になった。しかしそのことは当然、「他者」と関わらなくて済むことも意味する。私たちは、「価値観や感覚がなんとなく合わない人」との関わりを極力排除できてしまうし、だからこそ「コミュニケーションへの意欲」を失いつつあるはずだと思う。「伝わらない人」との会話をさっさと諦めてしまえる世界では、「コミュニケーションへの意欲」は育ちようがないからだ。
また、仕事においては「リモートワーク」が定着しつつある。もちろん、リモートワーク特有の問題も出てきているだろうが、職場に行かずに済むことで、「他者とのコミュニケーションをしなくて良くなった」と感じている人もいるのではないかと思う。であれば、ますます意欲の低下は避けられないはずだ。
「コミュニケーション能力」が問題となる場合、一般的にテクニックや言動などに言及されることが多いように思う。しかしそうではなく、まず「コミュニケーションに対する意欲が存在するのか?」を問うべきだという著者の指摘は、シンプルながら本質を衝くものと言えるだろう。
ちなみに、以前読んだ瀧本哲史『武器としての交渉思考』でも、「異質な他者と関わることの重要性」が指摘されていた。全体の内容は「交渉のテクニック本」なのだが、一方で、「なぜ交渉すべきなのか」についても熱く語られている。そして、「異質な他者と関わる手段としての『交渉』」にこそ大きな意味があると指摘するのだ。
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