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【葛藤】「多様性を受け入れること」は難しい。映画『アイヌモシリ』で知る、アイデンティティの実際

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「アイヌ民族」だけの物語ではない。「どう見られるか」から逃れられない現代人に向けられた問いだ

「アイヌ民族」への意識の低さ

私は普段の生活の中で、「アイヌ民族」のことを考える機会がない。そういう出自の人と恐らく関わったことがないし、地理的にも北海道から遠いところに住んでいる。何も意識しないと、「日本は単一民族国家」だとなんとなく考えてしまいがちだ。

今は、『ゴールデンカムイ』(野田サトル/集英社)のような、アイヌ民族を題材にしたエンタメ作品もある。また、いわゆる「アイヌ新法」が2019年に制定され、法律の中できちんと「アイヌ民族」が規定されたことも話題となった。身の回りに「触れるきっかけ」は確かに増えていると言えるが、しかしやはり私にとっては遠い存在だ。

本当は、これまでどのような対立や意見の食い違いがあり、日本という国がアイヌ民族とどのような関わり方をしてきたのかという歴史を知っておくべきだと思う気持ちはあるのだが、どうしてもそういうことをサボってしまっている。そんな罪悪感のような感覚を抱いていたこともあり、タイトルから恐らくアイヌ民族に関係する映画だろう本作を観る決意をした。

「アイヌ民族」を題材にした、我々の物語

しかし映画を観ながら、「確かにアイヌ民族を描いた映画だが、これはアイヌ民族ではない我々にも突きつけられている問いだ」と私は感じた。

その一番の理由は、「アイヌ民族は、アイヌ民族として扱われることに戸惑っている」というのが、この映画の主題であるように私には感じられたことだ。

確かに映画の中で、「アイヌ民族とはこのような人たちだ」という描写は様々に登場する。しかしこの映画においては、観客にそれを伝えることは重視していないと感じた。それ以上に、「アイヌ民族はアイデンティティで揺れているが、あなたたちはどうだ?」と問われているように思えたのだ。

映画には、「アイヌ文化」を描く場面もいろいろあるのだが、私が一番驚いたのは「現代のアイヌ民族はアイヌ語を勉強している」という描写だ。これは非常に印象的な場面だった。

映画の舞台となっているのは、「アイヌの町」として有名なアイヌコタン。ここには多くのアイヌ民族が住んでいる。しかし、この「アイヌの町」で生まれ育っても、既に日常的には使われなくなっている「アイヌ語」を喋れるようにはならない。生まれがネイティブでも、言語的にはネイティブにはなれないのだ。

別にアイヌ語を学ぶ必要なんかないのでは? と思うかもしれないが、アイヌコタンは観光で成り立っているという特殊な事情がある。観光客は当然、「この街の住人はアイヌ語で喋っているはず」と考えて来るわけだ。だからこそ彼らは、外からのそんなイメージに合わせるためにアイヌ語を勉強している。

このスタンスは、アイヌ民族が抱える葛藤の象徴と言っていいかもしれない。

映画で描かれるアイヌ民族の中には「アイヌ民族として見られることに違和感がある」というタイプの人もいる。「我々はアイヌ民族だ。その文化を後世に継承していこう」と力強く迷いなく考えられる人もいるが、「確かにアイヌ民族として生まれたが、別にアイヌ民族として生きていきたいわけではない」と考える人も当然いる。

この映画では、この両者の緩やかな対立構造に焦点が当てられていると言っていいだろう。

そしてそれはまさに、SNS時代を生きる我々が日々突きつけられている問いではないかとも感じるのだ。否応なしに「どう見られるか」に汲々とせざるを得ない現代人の悩みと重なる部分があると思うのだがどうだろう。

「アイヌ的なもの」から離れたいと考えている主人公の少年の葛藤

主人公のカントは、アイヌコタンで生まれ、お土産屋さんを営む両親に育てられるも、父親を亡くし、母親と2人で暮らす少年だ。14歳の彼は、「アイヌ民族」として見られることになんとも言えない違和感を覚えている。

例えばこんな場面。カントの母親は店に立っていると、観光客から「日本語、上手ですね」と声を掛けられることがある。母親も「アイヌ語を勉強している人」であり、むしろアイヌ語の方がしゃべれない。しかし観光客の幻想を崩さないために、「たくさん勉強したので」と、さも「日本語を頑張って勉強した」かのように返答する。

そんな母親の姿を見てしまえば、カント少年が違和感を抱くのも当然だろう。

カントはカントで、アイヌ的なものをすべて嫌悪しているわけではないはずだ。亡くなった父はアイヌ文化を守ろうと活動していた人物である。また後半では、半ば強引とはいえアイヌ文化の儀式的にも関わる。彼もきっと、観光の街に住んでいるのでなければ、「アイヌ文化」に対して違った見方をしていたことだろう。

しかし残念ながら、観光客の「アイヌ民族へのイメージ」は非常に短絡的なものであり、そして観光で成り立っている街ではそのイメージに合わせざるを得ない。その一方で、こんな皮肉もある。本来的にアイヌの文化を色濃く残す儀式は、「野蛮だから」という理由で、アイヌ民族に詳しくない人から嫌悪の対象と考えられるのだ。このような外部の視点が、アイヌ文化の継承を難しくしている要因の1つである。

この”野蛮な”儀式については大人たちの間でも意見は分かれている。「時代に合わせて世の中に迎合していくべきだ」という主張がある一方で、「アイヌ民族がどう見られるかではなく、アイヌ民族としてどうあるべきかという点こそが重要なのだ」と強固に主張する派閥も存在する。

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