見出し画像

【生と死】不老不死をリアルに描く映画。「若い肉体のまま死なずに生き続けること」は本当に幸せか?:『Arc アーク』

完全版はこちらからご覧いただけます

「不老不死」に憧れない私が考える「生と死」。「死なないこと」は生命にとって福音か?

この映画では、いわゆる「不老不死」が描かれる。「ある時点で肉体の時間を止める」という技術によるものだ。だから、この映画で描かれる「老化抑制技術」を施した時点から肉体的にも年を取らなくなり、理論上はそのままずっと生き続けられる。

このような技術を「羨ましい」「待ち遠しい」と感じる人もいるだろう。しかし、私にはその感覚がまったく理解できない。元々「生きること」に対する気力がないからという理由は大きいのだが、それだけではない。シンプルに、「そんなに長く生きて何がしたいんだ?」と感じてしまうのである。

「不老不死」は望ましい状態なのか?

よく、「大昔の権力者は不老不死を望んでいた」と聞く。薬効が不明な謎の食べ物を口にした、あるいは神様的な存在と契約をしたものの上手く行かなかったなどなど、様々な逸話が残されている。

私は、「権力者が『自分だけ不老不死になる』ことを望む」という状況なら理解できる。ポイントは、「自分”だけ”」という点だ。他のすべての人はいずれ死んでいくが、自分だけは永遠の命を有している、という状況に憧れる気持ちは、分からないではない。普通は、「自分だけが長生きする」という状況は寂しさも抱えうるが、権力者であればどうにでもなるだろう。「不老不死」の力を得て、権力の座につき続けたいと考えているのなら、まだ理解の範囲内だ。

一般的に「不老不死になりたい」と言っている人の主張が上述のようなこと、つまり「自分だけが不老不死になる」という状態を願っているのであれば、まだ理解できる。しかし、普通そんなことはあり得ない。私たちが生きている世界で、本当に「不老不死」が実現するとすれば、それは科学技術の成果であろうし、「金持ちしか行えない」などの制約はあったとしても、基本的には「自分だけが不老不死になる」という状況にはならないだろう。

それなのに「不老不死」を望む気持ちが、私にはさっぱり分からない。

以前書いた『だから仏教は面白い!』の記事の中で、「欲望充足に終わりはなく、どれだけ欲求を満たそうとしても、『満たされた』という状態に達することがない」という「苦(ドゥッカ)」について紹介している。

仏教では、そんな「苦(ドゥッカ)」から逃れるために修行をし、「欲望」から解放された生を生きることを目指しているのだと、その本では説明されていた。

確かに、「『満たされた』という状態に達することはできない」という感覚はとてもよく理解できる。もっと美味しいものを食べたい、もっと素敵な場所へ旅行に行きたい、もっと……と、今以上の何かを求める気持ちが無くなることはないだろう。人生がどれだけ長くなったところで、欲望を追い続ける人生を送っているとするなら、逆説的ではあるが、「満たされた」「満足した」という状態には行き着けないというわけだ。

別に行き着けなくてもいい、欲望を満たしているその過程が延々と続くことこそが幸せなのだ、という主張もあるかもしれない。もちろんそれは個人の価値観だからとやかく言うことではないが、私にはイマイチ理解できない感覚だ。

あるいは、私がまだ20代の頃、大学時代の友人との会話の中で、こんな話を聞いたことを未だに思い出す。彼は、「自分が死んだ後も世界が続いていくことが許せない」と言っていた。共感できる方はいるだろうか? 私は、この意見も、何を言っているのかさっぱり理解できずにいる。主張だけ切り取れば、いわゆる「セカイ系」のような感じだろう。自分の物語と世界全体の物語がリンクしており、自分の物語が終わる時に世界の物語も終わってほしい、と考えることは、なんか凄いなと感じた記憶がある。

映画の中では、「老化抑制技術」を開発した企業(研究機関)が記者会見を行う場面があり、そこで記者から、

死があるから、生が輝くのではないですか?

という質問が出た。手垢にまみれた価値観と言えばその通りだが、私としてはこちらの感覚の方に共感できる。「いずれ死ぬ」と分かっているからこそ、「それまでの間どう過ごすべきか」という問いが生まれると私は思うのだそして、「人生の意味」みたいなものを特段見つけられなかったとしても、最終的には「死ぬまでの暇つぶしだ」と考えて前に進んでいくことができる。

もし自分の人生に「終わり」がないとすれば、「なぜ自分は生きているのか?」を考え続けなければならないだろう。「終わりのない人生」を進んでいくために、自分で何か指針なり目標なりを探し続けるしかない。もちろん、それが出来る人ならいい。しかし、500年も1000年も、そんなことを続けていけるだろうか?

さて、先の質問に開発リーダーはこんな答えを返す。

死があるから生が輝くというのは、それしか選択肢がなかった人類が自分たちを慰めるために生み出したプロパガンダに過ぎません。

なるほどこの返答は興味深いと感じた。確かに人類は、「『死』からは逃れることができない」という価値観を当然のものとして受け入れてきたし、頑強にその枠組みの内側に閉じ込められてしまっている。その枠組みの内側でしか物事を捉えられないからこそ、「死があるから生が輝く」という主張が当然のものとして生まれる、というわけだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

3,620字

¥ 100

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?