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【変人】学校教育が担うべき役割は?子供の才能を伸ばすために「異質な人」とどう出会うべきか?:『飛び立つスキマの設計学』

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「教育」は何を目指し、何を成すべきではないのか

「現在の教育」からは遠ざかるべき?

本書の著者は、長く高校の美術教師として勤めた後、アートを切り口として様々な活動を行う芸術家に転身した。教育関係のプロジェクトと関わることもあり、本書では教師としての自身の経験も併せながら、「教育」とはどうあるべきかを様々に問うていくのだ。

著者の問題意識が要約されているこんな文章がある。

教育現場のストレスが多様な生き方を選択する可能性を閉ざし、クリエイティブな人間がどんどん世の中から消え、人々の対話がネガティブになり、誰もがアイデアを提案することの愉しさを忘れるような社会になってゆく未来を見たくはなかった(からこの本を書いた)。

教育現場における様々な問題は、結局、「子どもを押し込めている」「子どもに押し付けている」という点に尽きると捉えているということだ。

未来が不透明と言われるなか、指導者に必要な論理は、豪雨を降らせる高度経済成長期の「教えねばならない」という強迫観念から逃れ、若芽を信じて密林にスキマを開け、自発性の成長を待つ「邪魔しないという勇気」なのではないだろうか

子どもたちの才能を引き出すために「教育」は何ができるか。その観点から、本書は書かれている。

確かに、子どもの頃のことを考えると、とても窮屈だったことを思い出す。直接的にそう言われたことがあったかは覚えていないが、教室で私が常に感じていたのは、「はみ出すな」という空気だ。教師やクラスメートが、そういう雰囲気を作り上げていたのだと思う。学校というのは軍隊教育がベースになっていると聞いたこともあるので仕方ないのかもしれないが、その窮屈さは、本来伸ばすべき「個性」や「才能」を摘み取ってしまうものでしかないだろう。

著者は、「教師はいずれ不要になるだろうが、教室は必要だ」と主張する。つまり、「教える主体」は必要ないが、「様々な人間が関わり合って学ぶ場」は必要ということだろう。

そのために必要だと著者が考えているのが、「余白(スキマ)」である。

「正しい答え」が分かっている人しか手を挙げない日本の教室

子どもの頃はなんとなく、「正しい答え」が分かっていないと手を挙げてはいけないような気がしていた。ここには様々な要因があるだろうが、この空気によって「間違えることは良くないことだ」という認識が当たり前のように刷り込まれていく。

しかし、それでいいのだろうか?

僕は「場」って、許容する寛容さとか、再チャレンジが何回もできるとか、「環境」だと思うんですよ

確かに今から思えば、子どもの頃に「もっとどんどん失敗しろ」と言ってくれる大人がいたら良かった、と感じる。大人になってから失敗するのは、なかなか大変だ。だったら、子どもの時に、目一杯失敗しておく方がいい。

そういう意味で私は、子どもの頃に、もっと変な大人に出会いたかったと感じる。

著者が勤務していた高校での、こんな描写がある。

ようやく状況が落ち着き始めると、高校で教員組織に馴染めないヤサグレの教師たちが美術教官室にたむろしだした。校長や教頭といった指揮系統から何も指示がない以上何もしなくても良いのだが、「組合が気持ち悪い」と逆らってたような音楽教師のMやS、英語教師で小説家のHなど数名が、箱入りインスタントラーメン(たぶんどん兵衛)をかき集めては、頼まれもしない高校の復興計画を練り始めたのだ。
とにかく組織で平時は役立たずの人間と思われている連中は、このような危機的状況が起こると創造性を爆発させる

また著者は、高校に教育実習に行った際、朝礼中にウイスキーの水割りを飲んでいる美術教師がいたとも書いている。

現代なら、親からのクレームがもの凄いだろう。そしてだからこそ、そういう「変わった大人」は、学校にはなかなかいられなくなってしまう。「余白」が削られてしまっていると感じる。

しかし、ちょっと違った世界を見ることも「教育」の一環と言えるだろう。

「正しくて綺麗なものだけを子どもには与えましょう」という主張が正解だと、特に親は信じているかもしれないが、本当にそうだろうか? 醜いものを知らなければ理解できない美しさもあるのではないか? と私は考えてしまう。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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