【驚愕】日本の司法は終わってる。「無罪判決が多いと出世に不利」「中世並み」な”独立しているはず”の司法の現実:『裁判所の正体』(瀬木比呂志、清水潔)
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日本の司法の捉えられ方と酷い現実
日本の司法は中世並み
こんな引用から始めよう。
なかなか衝撃的な事実ではないだろうか。「中世並み」というのは、かなりのパワーワードだ。勝手なイメージでしかないが、「中世」の「裁判」と聞くと、「魔女狩り」のようなものが頭に浮かぶ。さすがに「魔女狩り」ほど酷いとは思いたくないが、欧米からすれば大差ないのかもしれない。
日本の司法の現状は世界から逆行していると、本書では指摘される。これは、民主主義という仕組みを、自らの手で闘争によって勝ち取ってきた欧米との差なのではないかとも、本書の中で繰り返し語られている。日産自動車元会長のカルロス・ゴーンが逮捕された際、欧米からかなり厳しい目が向けられていたと記憶しているが(最終的に逃亡してしまったので、どちらが悪いというレベルの話ではなくなってしまったが)、日本の当たり前は欧米の異常であると言えるのだと思う。
生涯裁判と関わらずにいられればいいが、それは誰にも分からない。だからこそ、日本の司法の現実がどうなっているのか知ることは重要だろう。
著者二人の紹介
本書は、二人の対談という形で進んでいく。
瀬木比呂志は、元エリート裁判官だ。今でこそ、裁判所や司法の現状に対して批判的な目を向けることができるようになったが、在任当時は、その違和感に気づきもしていなかった、と告白している。裁判官を続ける中で少しずつ違和感が大きくなったことで退任し、その後、司法の外の世界を知り、裁判所を客観的に見ることでその異常さを理解するようになる。裁判所に関する情報は、なかなか表に出てこない。だからこそ、日本の司法が孕んでいる問題や危険性について、かつてその内部にいた人間として警鐘を鳴らそうと奮闘している。『絶望の裁判所』(講談社現代新書)などの著作もある。
一方の清水潔は、事件記者である。『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件―遺言』(共に新潮文庫)などの著作がある。一記者でありながら司法制度に立ち向かって冤罪を証明するなど、その凄まじい執念と取材力で事件と向き合ってきた。本書は、そんな事件や司法に詳しい清水氏が聞き手となることで非常に意義のある対談となっているのだが、その点は後で触れよう。
裁判官は「大岡越前」ではない
まず私たちは、「裁判所」がどういう場所なのかを理解しなければならない。
「裁判」と聞くとなんとなく、「そこですべての真実が明らかにされ、裁判官が正しい判定を下してくれる」とイメージしてしまうだろう。時代劇が好きな人なら、「大岡越前」のイメージだ。しかしそれは正しくない。
本書には、清水氏が冤罪を証明した菅家利和氏の話が少し載っている。菅家さんは、警察での強烈な尋問によって嘘の自白をしてしまう。しかし彼はこう考えていた。裁判所に行けば、きっと正しい裁きをしてくれる。警察や検察では信じてもらえなくても、裁判所ではきっと、と。
瀬木氏もこう話す。
しかし、このイメージは誤りである。裁判所は、被告人の訴えに耳を傾けて真実を明らかにする場ではなく、弁護士と検察が集めてきた証拠を出し合って真偽を判断する場だ。これは近代的な裁判の捉え方であり、日本に限った話ではない。
さてその上で、清水氏はこんな風に話している。
これまで数多くの事件や裁判に関わってきた清水氏でさえ、こう考えている。となれば、日本人のほとんどが同じように考えていてもおかしくない、ということになるだろう。
裁判所に対する漠然とした信頼を、二人は「お上」という言葉で表現する。そして、そういうイメージを持って裁判所を捉えていると間違えてしまう、ということを本書で明らかにしていく。
冤罪が多いと出世に不利
本書の中でも相当に衝撃的な発言はこれだろう。
この事実を知ってしまった時点でもはや、裁判というものへの信頼が崩れてしまうと感じる。「推定無罪」というのは、「有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という近代法の基本原則だ。しかし、「無罪が多いと出世では不利」となれば、裁判官はそもそも無罪判決を出すつもりがないということになる。つまりそれは、「推定有罪」と考えているということではないだろうか。
他にも、原発の再稼働に待ったを掛ける判決を下した裁判長が、通常であればありえないような転勤をさせられた、というようなケースを挙げている。
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