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【伝説】「幻の世界新」などやり投げ界に数々の伝説を残した溝口和洋は「思考力」が凄まじかった:『一投に賭ける』

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努力と思考力がずば抜けていたアスリート・溝口和洋の凄まじさを「一人称」で描く異端ノンフィクション『一投に賭ける』

溝口和洋というアスリートのことをご存知だろうか? 私は本書で初めてその存在を知った。やり投げの選手であり、「欧米人に体格で劣る日本人は世界に匹敵することは不可能」と言われていた時代に、「『努力』という言葉では足りないぐらいの圧倒的な練習量」と、「『常識をすべて疑って自分の頭で考える』という凄まじい思考力」を武器に、世界と闘ったとんでもないアスリートだ。

彼は一度「幻の世界新」を出している。どういうことか。溝口和洋は「計測時に恐らく不正があったはずだ」と考えている。

冷静に考えると、いくら安物のメジャーを引っ張ったとして、それで8cmも縮むわけがない。おそらく芝生にいた計測員が、再計測のとき、故意に着地点をわずか手前にずらしたのだ。

最初の計測では「87m68」とアナウンスされ、これは当時の世界新記録だった。しかしその後再計測となり、記録は「87m60」に変更となる。今でもまだ残っているかもしれないが、彼が「幻の世界新」を出した1989年当時はまだ、スポーツの世界にも人種差別的な考え方があった。主力選手のほとんどが欧米人である投てき種目において、アジア人の台頭を好まない計測員が着地点をずらしたのではないかと疑いを挟む余地があるというわけだ。

結果として世界記録とはならなかったが、しかし、体格では圧倒的に劣る日本人が、そのすさまじい努力によって欧米人に匹敵出来たことは間違いない。

そんな溝口和洋は、異端のアスリートとしても知られている。そのことがよくまとまっている文章を引用しよう。

中学時代は特活の将棋部。高校のインターハイにはアフロパーマで出場。いつもタバコをふかし、酒も毎晩ボトル一本は軽い。朝方まで女を抱いた後、日本選手権に出て優勝。幻の世界新を投げたことがある。陸上投擲界で初めて、全国テレビCMに出演。根っからのマスコミ嫌いで、気に入らない新聞記者をグラウンドで見つけると追い回して袋叩きにしたことがある……。
それらの噂の真偽は、取材当時はわからなかったが、溝口和洋が日本陸上界で誰もが認めるスターだったのは間違いない。

本書の著者である上原善広は知り合いの記者から、「絶対にインタビューなんかできない」と忠告されていたそうだ。確かに、そう言いたくもなるだろう。しかし著者は、18年もの年月を掛けて溝口和洋から話を聞き、その生涯を「溝口和洋の一人称視点」という普通じゃないやり方で1冊にまとめた。

ノンフィクションは普通、「新聞のような客観的な文章」か「著者自身による一人称」で描かれるものだろう。しかし本書は、「溝口和洋の一人称視点」で描かれている。まるで溝口和洋本人が執筆したかのような書き方というわけだ。私はノンフィクションをそれなりに読むが、このようなスタイルの作品はかなり珍しいと思う。もちろん、無名の書き手がゴーストライターとして「著名人の一人称」で本を執筆するなんてことはいくらでもあるだろう。しかし、上原善広のような名のあるノンフィクション作家が、自身の名前を冠した作品で、対象となる人物の一人称で執筆するというのはなかなか異例と言えるはずだ。

客観的に描像するのが困難な人物だったのか、あるいは「溝口和洋」という人物を描き出すにはこの手法が最適だと考えたのか、その辺りのことはよく分からない。ただ、一般的なノンフィクションと比べてやはり感覚は違うため、特異な読書体験になったことは確かだと言える。

「本気の努力」のレベルに圧倒される

溝口和洋の「本気」は、ちょっと常軌を逸している。その異常さは、例えば次のような文章を読めば実感できるだろうと思う。

懸垂のMAXとは「できる限り回数をやる」ことになる。例えば懸垂を十五回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。間に休憩を入れても良いが、五分以上、休むことはあまりない。初めは反動なしでの懸垂だ。
この懸垂ができなくなった初めて、反動を使っても良い。それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。ベンチをやっている時から、シャフトを強く握っているからだ。
しかしここで止めては、100%とはいえない。
そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂をおこなう。さすがに学生たちは本当に泣いていたが、ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には闘えないのだから、無理は承知の上だ。

どうだろうか。このような練習を、彼は日常的に行っていたのだ。通常の練習時には日本トップ選手の5倍のウェイトを行い、大会後や調整時期などは「軽め」にするために抑えていたそうだが、それでもトップ選手の3倍はやっていたという。聞いただけでめまいがしてきそうな話である。

また、後で触れる「思考力」にも関係する話だが、ウェイトについてはこんな考えも持っていたそうだ。

私にとってウェイトは、繊細にして最大の注意を払うべきトレーニングだ。ここでウェイトの話をすることは、私自身を説明することに他ならない。
ウェイトこそ、私の哲学の実践だといっても過言ではない。
ウェイトをすると「身体が硬くなる」、または「重くなる」という人がいる。
しかし、私から言わせると、それはウェイトを「単に筋肉を付ける」という目的でやっているからだ。短距離なら「速く走るためのウェイト」をしなくてはならない。これをしていないから、身体が重く感じるのだ。
では、その種目に合ったウェイトとは一体、どういうことなのか。
一言で言えば、ウェイトは筋肉を付けると同時に、神経回路の開発トレーニングでなければならない。筋肉を動かすのは、筋肉ではない。脳からつながっている神経が動かすのだ。
この神経がつながっていないとせっかく付けた筋肉が使えない。結果、身体が重く感じてしまう。物理的にも重くなっているのだからそう感じて当然だ。

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