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【アメリカ】長崎の「原爆ドーム」はなぜ残らなかった?爆心地にあった「浦上天主堂」の数奇な歴史:『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』

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長崎にも「原爆ドーム」があった!?「劣等被爆都市」となってしまった長崎の「キリスト教」という特殊な背景

長崎にも、原爆被害を後世に伝える遺構が残っていた。しかし現在、その遺構は失われてしまっている。広島では、世界中から訪れた人たちに「原爆の悲惨さ」を伝えるシンボルとして今も残り続ける「原爆ドーム」は、どうして長崎からは消えてしまったのだろうか。

その真実を追うノンフィクションだ。

本書を書くきっかけとなった出来事と、「浦上天主堂」の存在について

著者は、原爆投下から10年後に爆心地近くで生まれ、子どもの頃から繰り返し、母の被爆体験を耳にしていた。しかし、その記憶を思い返してみても、「浦上天主堂」の名前が出てきたことはなかったそうだ。

私は当然ながら、本書で初めて「浦上天主堂」の存在を知った。名前を聞いたのも初めてだと思う。そもそも私は、「長崎には原爆の爪痕を残す遺構が存在しない」という事実さえ知らなかった。そしてこの「浦上天主堂」こそ、長崎で「原爆ドーム」として残るはずだった、キリスト教の大聖堂なのである。

しかし現在、その建物は残っていない。ネットで調べてみると、「カトリック浦上教会」という聖堂が、旧称である「浦上天主堂」として一般的には知られているそうだ。しかし現在の建物は、原爆投下時に存在していたものではない。原爆投下によって崩壊した浦上天主堂は、「歴史の証人」としての役目を果たす前に取り壊されてしまったのだ。

何故そんなことになってしまったのか。そこには、「浦上」という土地の歴史が関係している。詳しくは後で触れるが、「浦上」は「隠れキリシタンの聖地」だったのだ。

著者はあとがきで、「自分が大人になるまで『浦上天主堂』の話をしてくれる人は周りに1人もいなかった」と書いている。もちろん、「原爆投下によって倒壊した浦上天主堂」の存在を知っている地元民もいるはずだ。しかし、「広島の原爆ドーム」と並ぶ存在になるはずだった「浦上天主堂」は、世界どころか日本でもほとんどその存在が知られていない。私も、本書を読まなければ、一生その存在について知ることはなかっただろう。

本書で描かれるのは、そんな「浦上天主堂」の数奇な運命を辿る実話である。

著者が本書を書こうと思い立った直接のきっかけは、NBC長崎放送に勤める友人が貸してくれた1本のドキュメンタリーだった。その内容がまさに、「原爆によって半壊し、悲惨な姿のまま廃墟になった浦上天主堂が戦後取り壊された理由」を解き明かそうとするものだったのである。そのドキュメンタリーを観た時点で、著者は既に「浦上天主堂」という名前だけは耳にしていたのだが、具体的なことはほとんど何も知らない状態だった。そこで、廃墟となった浦上天主堂の写真を見てみることにした著者は、そこで天啓を受けたように「この歴史について調べなければならない」と思い立ったのだという。

そしてなんと、著者の取材により、アメリカの遠大な計画が明らかにもなっていく。本書を読むと、アメリカという国家の強かさに驚かされてしまうだろうと思う。

「浦上天主堂」の解体には、3人の人物が大きく関わっている

それでは、「浦上天主堂」の解体に関わった3人の主要人物を紹介しながら、その背景をざっくりと追っていくことにしよう。

山口大司教は、当時の長崎大司教区のトップだった人物だ。そして恐らく彼が、「廃墟となった浦上天主堂の行く末」の”表向きの決定権”を持つ人物だったはずだと本書では推定されている。

アメリカは長崎に原爆を投下したわけだが、しかし浦上を狙っていたわけではない。いくつものちょっとした要因が積み重なった上での偶発的な決断だったのだ。そもそもアメリカには、わざわざ浦上を目標にする理由がない。何故なら、浦上天主堂が建てられていた場所は、江戸時代に隠れキリシタンを弾圧していた庄屋が所有していた土地だからだ。

江戸時代にキリスト教が弾圧されたことはよく知られているだろう。その中でも長崎の隠れキリシタンへの締め付けは厳しかった。2018年に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に認定されたが、隠れキリシタンたちがその地に残した様々な文化が歴史遺産として保存されるに至るほど、隠れキリシタンへの弾圧が厳しかったのだと想像することができると思う。

そんな隠れキリシタンを弾圧していた人物が所有していた土地にキリスト教の聖堂を建てる。それは、隠れキリシタンにとっては非常に大きな意味を持つことであり、その点はキリスト教の世界でも理解されていた。だから、わざわざそんな地をピンポイントで狙って原爆を投下するはずがないのだ。

山口大司教は浦上出身であり、だからこそ、浦上天主堂を同じ場所に再建することへの強いこだわりがあったはずである。つまり、「そのためには、半壊した浦上天主堂が邪魔だった」と考えた可能性があるというわけだ。さらに、アメリカからなんらかの”圧力”もあったのではないかと推察できる状況も存在した。自身の希望に加えてアメリカの思惑を汲み取った上で、山口大司教は「解体」の判断を下したのかもしれない。そんな可能性が示唆されていく。

永井隆は、「浦上の聖者」と呼ばれた人物である。昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇まで彼の元を訪れたというから、どれだけその名が轟いていたか想像できるだろう。当時の長崎において、彼の存在感はとても大きなものだった。故に、「解体」の決定にも間接的に関わっているのではないかと考えられているというわけだ。

永井隆は長崎医科大学物理的療法科部長の肩書きを持つ医学博士だった。そんな人物が一躍時の人となった理由は、『長崎の鐘』という彼の著作にある。長崎の被爆について詳細に書かれた記録であり、当時大ベストセラーとなったのだ。

これだけの話なら、彼が重要な人物とされる理由は無いように思えるだろう。しかし、当時の日本が占領下にあったことを忘れてはならない。当然、すべての出版物はGHQの検閲を受けることになる。最終的に『長崎の鐘』は出版され、だからこそ永井隆は時の人となった。しかし、原稿を読んだ占領軍の評価は真っ二つに分かれたそうだ。そして最終的に、「ある条件付きなら」という合意の元、出版に至ったというわけである。

ここにも、アメリカの影が見え隠れするというわけだ。

田川務は、当時の長崎市長である。苦学の末に弁護士となり、その清廉潔白な仕事ぶりが評価されて市長に推された彼は、原爆投下直後から「浦上天主堂を保存する意向」を示していた。当初から市長がこのように主張していたのだ。そのままであれば「浦上天主堂」は「原爆ドーム」として残されたことだろう。

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