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【奇跡】鈴木敏夫が2人の天才、高畑勲と宮崎駿を語る。ジブリの誕生から驚きの創作秘話まで:『天才の思考』(鈴木敏夫)

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鈴木敏夫が、天才・宮崎駿、高畑勲、そしてジブリとその作品の裏側を語り尽くす

本書は、「ジブリの教科書」シリーズの記述をまとめた作品だ。

文春文庫から出ている「ジブリの教科書」では、1冊でジブリ作品が1作品取り上げられ、様々な角度から語られる。その中には、鈴木敏夫が各作品についての分析や思い出を語るコーナーもあり、本書は、その鈴木敏夫のパートだけを抜き出して再構成した作品だ。

著者はあとがきで、

ゲラを読んで驚いた。自分が体験したことを語った内容なのに、話の細部のほとんどが記憶に無い

と語っている。

読みながら、歴史上の人物のやった出来事を読んでいる気分だった

とも書いており、私の印象としては、過去を振り返る余裕もなく突っ走ってきた鈴木敏夫の奮闘の証であるように感じられた。

鈴木敏夫はいかにしてジブリに関わることになったのか

よく知られている話かどうかは知らないが、鈴木敏夫は最初からジブリにいたわけではない。元々は、徳間書店という出版社で働いていた。

彼が入社した70年代半ばは、新聞記者や編集者が一般的には「生業」とは見なされておらず、「ヤクザな世界」だと思われていたそうだ。そんな時代に彼は、『週刊アサヒ芸能』の記者や『テレビランド』の編集など、雑誌と関わるようになっていく。

ジブリと関わる直接のきっかけとなったのは、雑誌『アニメージュ』だ。

鈴木敏夫は元々、『アニメージュ』とはまったく関係なかった。しかし、その新しいアニメ雑誌の創刊準備をしている男から、「外部のプロダクションと喧嘩しちゃったら俺はもう出来ない。代わりに引き受けてくれないか?」と突然話が舞い込んできたのだ。

そもそもアニメのことなどまったく知らなかったが、緊急事態だということもあり引き受けざるを得なくなる。

しかし大問題があった。引き継いだ時点で校了まで2週間しかなかったのだ。普通に考えれば、118ページの創刊号を2週間で作り出すのは不可能である。しかしそんなこと言っていられない。どうにかしなければと試行錯誤している時に、元編集長から紹介されたアニメ好きの女子高生の「『太陽の王子 ホルスの大冒険』が面白い」という話を思い出す。

創刊号はこれで行こう、と鈴木敏夫は決めた。そして、そんな流れから、制作者の宮崎駿・高畑勲と関わりが出来ていくことになる。

宮崎駿との最初の邂逅はなかなか痛快だ。

片や宮さんのほうは『ルパン三世 カリオストロの城』を製作中でした。あとで宮崎駿はその時の僕を回想して「うさん臭いやつが来たと思った」と言うんですが、会った最初に言われたのが「アニメーション・ブームだからといって商売をする『アニメージュ』には好意を持っていない。そんな雑誌で話したら自分が汚れる。あなたとはしゃべりたくない」。

こう言われた鈴木敏夫はどうしたか。なんと、一心不乱に描き続ける宮崎駿の横に3日間居座り続けたのだという。それでやっと口を利いてもらえるようになった。しかし、創刊まで2週間しかないのに、その内の3日をただ「待つ」ことに使うというのだから、鈴木敏夫の胆力も凄まじいと感じさせられる。

そんな鈴木敏夫は、宮崎駿・高畑勲の仕事に触れることで、「アニメ」や「アニメーター」への印象が変わっていったという。

二人を見て、これほどまでに働くのか、今や”作家”はこんなところにいるのかと思ったんです。そのころ、僕の持つ作家のイメージを体現する人はもう吉行淳之介さんぐらいしかいなくて、想像していたとおりのストイックな作家性を持つ人間が、高畑・宮崎だったんです

こんな風にしてジブリと関わるようになる鈴木敏夫だが、彼はその後もしばらくずっと徳間書店の所属のままだった。それは、『もののけ姫』や『となりの山田くん』を制作している期間でさえも変わることはなく、

ジブリの母体である徳間グループの不良債権問題が本格化し、僕がその処理にあたる羽目に陥っていたのです。朝はメインバンクである住友銀行のある大手町、昼は徳間書店のある新橋、そして夜はジブリのある東小金井。三角地帯をぐるぐる回る毎日でした

と、ジブリに専念できるような日々ではなかったそうだ。というかそもそも鈴木敏夫は、ジブリにおいてはなんの肩書もなく、ただ面白いから好きで関わっているだけ、という立場にすぎなかった。そうこうしている内に、いつの間にかジブリのプロデューサーになってしまったというのだから、人生何が起こるか分からないものだと思う。

様々な作品における鈴木敏夫の関わり方

ジブリはこれまでに様々な作品を生み出し、それらはどれも名作として知られているが、その誕生の背景にはいろいろな苦労があった。鈴木敏夫がどのように関わってきたのかを軸にして、いくつかの作品の裏側を覗いてみよう。

『紅の豚』は元々、「JALの機内で流す15分程度のショートフィルム」という依頼があって作り始めたものだった。さっそく宮崎駿に絵コンテを描いてもらうのだが、それを見た鈴木敏夫は「これで終わり?」と感じたそうだ。当初宮崎駿が考えていたのは、現在の『紅の豚』の冒頭部分だけだったのである。

そこで鈴木敏夫は、「ここはどういう設定になっているんですか?」「こういう部分もみんな知りたいんじゃないですかね?」と宮崎駿に質問し続けた。そしてそうこうしている内に、93分という長編の物語になっていったのだという。

『ハウルの動く城』の制作は、まず城の造形から始まった。映画公開後、この城の造形は絶賛されたようで、フランスのリベラシオン紙では「現代のピカソ」と評されるほどだった。

手掛けたのはもちろん宮崎駿で、そのスケッチを鈴木敏夫に見せて、「これ城に見えるかな?」と確認を求めてきたことがあった。ここで鈴木敏夫はこんなやり取りをしたという。

正直にいえば、城には見えません。でも、そう言ったら、また制作はストップです。ぼくは「いいじゃないですか。見えますよ」と言いました。ともかく先に進むことが大切だと思ったんです

本書を読めば理解できるが、宮崎駿と高畑勲を動かすのはとにかく難しい。どちらも違ったタイプの職人気質で、こだわりや自らの理想などに従って感情的に行動することも多いため、様々な理由で制作が滞ってしまうという。

私が本書を読んで、これが最大のピンチだったのではないかと感じたのは、『平成狸合戦ぽんぽこ』制作中の出来事だ。高畑勲が手掛けていたこの映画をなんと宮崎駿が「制作中止にしよう」と真剣に言ってきたのだという。鈴木敏夫いわく「大変な修羅場だった」そうで、これまでも様々な危機を乗り越えてきた彼でもお手上げ、このままではジブリは終わってしまうかもしれない、というほどの状況だった。

そこで鈴木敏夫は一か八かの賭けに出る。「無断でジブリを休む」という強硬策を取ったのだ。結果的にはこれが効いたようで、ギリギリのところで2人の争いは終結、ジブリが空中分解することもなく制作を進められたという。

しかし本当に、毎日が「いつ勃発するか分からない綱渡りの連続」という感じで、気が休まることがなかっただろう。そういう業界に疎い私のような人間は、「プロデューサー」と呼ばれる人たちが何をしているのかイメージできないことも多いが、鈴木敏夫はとにかく「宮崎駿・高畑勲をきちんと制作に向かわせること」が最大の仕事だったと言っていい。

また、『ゲド戦記』に関するこんな話もある。元々鈴木敏夫は、監督を宮崎吾朗(宮崎駿の息子)にやってもらおうと考えていた。
しかしこれまでの経験から、「宮崎吾朗」の名前を最初から出してしまえば宮崎駿に反対されることも明白だったという。だから、まずは2人、ダミーとして別の名前を出してから、「だったら吾朗くんはどうですか?」と切り出し、上手くいったのである。

「天才と仕事をする」というのはもちろん、刺激に満ちた面白い経験だと思うが、当然苦労も多いというわけだ。

『もののけ姫』は関係各所から「反対」されていた

「監督のプロデュース」ではなく「作品のプロデュース」という意味で最も難しかったのは『もののけ姫』だったという。というのも、この作品は様々な人たちから「反対」されていたからだ。

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