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あきなりの短編集

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短編をまとめています。のんびり増量中。
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記事一覧

短編|体内時計

短編|体内時計

「ほらほら、起きて!全く、何年たったら自分で起きられるようになるの!休日だからって気を抜かないで!」

姉の不機嫌な声と、体を揺さぶられる感覚。目をうっすら開けると、窓の外から陽光が差し込んでいる。昼だ。

「おはよう……」

私はもごもごと返答した。起きるのは苦手だ。頭がぼんやりしている。体がだるく、重い。特に胃のあたりにずしりとした重みを感じる。布団から這い出るようにして抜け出て、冷たいフロー

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短編|春の蝶、ある思想家の夢

短編|春の蝶、ある思想家の夢

仕事を終えて帰ると、いつものように彼が食事を用意してくれていた。シチューの甘くて温かい香りが部屋中に広がっている。

「おかえり、今ちょうどできたところだよ」
「やった、シチュー食べたいなって思ってたの」

上着を脱いでカバンを床に置くと、私は配膳の手伝いを始めた。

「いつもありがとう。おかげで帰ってくるのが楽しみ」
「いいのいいの。お仕事お疲れ様」

彼がニカっと笑う。帰りが遅くなりがちな私の

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たとえそれが銀だとしても track1

たとえそれが銀だとしても track1

「沈黙は銀で雄弁は金だ」
「いや、逆だろ」

沈黙は金で雄弁は銀だ。そして佐藤はうるさい奴だ。

「だって黙ってたら何考えてっかわからないじゃん」
「あえてそうすべき時もあるよっていうことを伝えたいんだろ。というかなんで急に格言が出てくるんだ」
「ユキってあんま喋んないじゃん?冷てぇなって」
「僕は普通に喋るけど。佐藤が暑苦しいんだよ」
中身のないやり取りをしながら、佐藤と僕は軽音部の部室でソファ

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短編|Forget me not

短編|Forget me not

ああ、パスポートの作り直しをせねば。花が発いてしまった。
薄暗い部屋の奥、灰やほこりにまみれた机の上でやっと見つけたパスポートから植物の茎が生え、先端に花が咲いていた。スタンプのインクの色を吸って、何とも言えないグレーの色になっている。
私はパスポートを大切にしていた。なくすと不安になり、手が震えた。いつも肌身離さず持ち歩いていた。いつかこんな場所脱出してどこか遠い国へ行くんだ。いつか映画で見たよ

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短編 | 知らない人の墓参り

短編 | 知らない人の墓参り

9月のおしまいの日に、私は知らない人の墓へ行く。
ついぞさよならをできなかった、またねの約束が叶わなかった冷たい人の墓へ行く。

彼は不思議な人であった。
大変思慮深く聡明で、茶目っ気のある人であった。
だがその一方で非常に繊細で不器用な一面を持っていた。

我々は学生の頃に出会った。
たまたまサークルが一緒であり、気が合う面があったためそれなりに仲良くしていた。サークル活動の一環で休日に行動を共

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