短編|春の蝶、ある思想家の夢
仕事を終えて帰ると、いつものように彼が食事を用意してくれていた。シチューの甘くて温かい香りが部屋中に広がっている。
「おかえり、今ちょうどできたところだよ」
「やった、シチュー食べたいなって思ってたの」
上着を脱いでカバンを床に置くと、私は配膳の手伝いを始めた。
「いつもありがとう。おかげで帰ってくるのが楽しみ」
「いいのいいの。お仕事お疲れ様」
彼がニカっと笑う。帰りが遅くなりがちな私のために、早く帰る彼はいつも食事を用意しておいてくれる。帰りに家で待っていてくれる人がいるというのはいいものだ。二人で暮らし始めて早三年。初めは戸惑うことも多かったけれど、今は互いのペースを掴み、穏やかにやっている。
「さあ、冷めないうちに食べよう」
シチューとパン、サラダ。ハム。メニュー自体はなんてことないかもしれないけれど、彼の作る料理はどれもおいしい。彼が作ってくれるから、なおさら味わい深く感じる。
「ごめんなさい、明日会議が入っちゃって少し遅くなるかもしれないの」
「分かった。時間が分かり次第メールをして」
明日は一緒に暮らし始めてちょうど三年の記念日で、ちょっといいレストランでディナーをするのだ。いつも家事を任せがちなので、感謝の気持ちをこめて彼の好きなブランドの財布を先週用意した。喜んでもらえるといいな。
……先週?そう、先週だ。何もおかしくはない。
食事を終えてシャワーを浴び、すぐに眠る。彼はすでに寝息をたてていた。
目覚めるとき、いつも近くに彼がいることを幸せに思う。まだ眠っている彼のおでこにキスをして、身支度と朝ごはんを用意する。今日も一日がんばるぞ。仕事が終わった後のご褒美のディナーが楽しみだ。
張り切って家を出た途端、一台の車がこちらに猛スピードで迫ってくるのが見えた。びくり、と体が反応する。固まって動けない。恐怖。また―――
……また?
車は十分な距離を保って私の脇を通り過ぎ、体のこわばりが解けた。なぜあんなに動揺していたのかが分からない。落ち着いてみれば実際には大したスピードも出ていないし、安全運転であることが分かったはずなのに。
まあ、いいや。急がないと会社に遅れてしまう。
そうだ、朝ごはんを冷蔵庫に閉まったことを彼に報告しよう。駅のホームでメールを打てばいいか。
さあ、忙しい一日の始まりだ……
僕はガラス越しに、ずいぶんと小さくなった彼女と対面している。
唯一残った彼女の臓器から延びる無数のコードやそれに繋がる機械を通して、彼女の見ている「夢」がスクリーンに送られ、映し出されている。
夢の中で彼女の出したメールに僕本人が返事を出すことはない。彼女の夢の中に住む僕が返事をするのを、ただ黙って眺めているだけだ。
あくびをひとつする。もう何年こうしているのだろう。三周年記念の一週間前、彼女は車にはねられた。体はもう助からなかったが、奇跡的に頭部は無事であった。あれから僕には現実感がない。彼女のいない日々を培養槽の前でフワフワと過ごしている。
もしかしたら僕自身も、きみのように長い夢を見ているのかもしれないね。
もう誰とも交わることのない、孤独な夢を。