短編|Forget me not
ああ、パスポートの作り直しをせねば。花が発いてしまった。
薄暗い部屋の奥、灰やほこりにまみれた机の上でやっと見つけたパスポートから植物の茎が生え、先端に花が咲いていた。スタンプのインクの色を吸って、何とも言えないグレーの色になっている。
私はパスポートを大切にしていた。なくすと不安になり、手が震えた。いつも肌身離さず持ち歩いていた。いつかこんな場所脱出してどこか遠い国へ行くんだ。いつか映画で見たような凪いだ海の見える小さな白塗りの壁の家に暮らすんだ。のんびり洗濯物を干しながら鼻歌を歌って、終わったら昼寝をして、そんなゆったりとした世界に生きるんだ。
時々行く旅行じゃなくて、言葉を勉強して、お金を貯めて、いつか。
それなのに、本当に厄介な世界だ。なぜ花なんか咲くんだ。
この世界の理として、持ち主が強く執着したものは放置しておくと芽吹き、いつか花を咲かせる。持ち主が死ぬまで花は咲き続け、大抵の場合は持ち主とともに散って枯れる。
花は咲いた瞬間から自らの宿主のなかみを吸い取る。今回のパスポートであれば紙に染み付いたインクを吸い取っている。吸い取られた宿主は少しずつもろくなり、いつか崩れ去る。崩れた後の土を養分にして根付き、種を植えた持ち主の死を待つ。
今回はパスポートが粉々になる前に見つけ出せたが、入出国時に押されたスタンプや印字などのインクが吸い取られてしまい使い物にならないので再交付の申請をする必要がある。
花は通常、モノに咲く。
いきものには咲かない。いきものの生命力が思念の種をはじくのだ。いきものに咲くことがあるとすれば、それはそのいきものが死にかけているときである。ごくたまに例外があるが、そういった場合は「花憑き」と呼ばれこの国では忌避されていた。花憑きの花は特別な色をしていて、持ち主の生死に関係なく、宿主が死ぬまで咲き続ける。
私は狭く、薄暗い家で育った。
父はおらず、母親が私を育てた。育てたといってもギリギリ生き延びることができる程度の衣食住を保証しただけだ。
彼女は私を疎んじて、家の外に出ていることが多かった。ありていに言えば、外で男をとっかえひっかえしていた。たまに帰ってくるとどんなに自分が尽くしても決して見合った褒美を与えない男の話をして自分の不幸を嘆き、私が存在するせいで再婚もかなわず報われない、生活が苦しいと嘆いた。時々手も出た。
そのくせ、ごくたまに飲み明かした夜はどんなに私のことを愛しているか涙ながらに語り、彼女を置いていかないようにと懇願した。
彼女は家に鍵をかけ、窓を塞ぎ、家から出られないようにと言葉と物理的な障壁の両方から私を閉じ込めていた。
塞がれた窓の隙間から、外の様子をぼんやり眺めるのが幼い私の日課だった。
パスポートは、16歳になった日にこっそりと家を忍びだしてとった。いつか家を飛び出してどこか遠くへ行きたかった。手続きのための書類を大変な苦労をした。決して母に見つからないようかくして守り通した。ヒステリーを起こすことが目に見えていたからだ。
母は私が17歳の時に死んだ。
あっけない死であった。飲みすぎた日の晩、よろめいて転んだ際に頭を打ったのだ。
私はくびきが突然消えたことに戸惑った。とりあえず17年私のかごであった家をふらふらと出て、アルバイトをしながら転々とした。
少したって気持ちが落ち着いたころ、家を燃やした。もう私を閉じ込めていたかごから飛び立つという決意で。
その時、パスポートをいつの間にか落としてしまっていたようだ。
しばらく探し回っていたが家にあったことに気が付いて帰ってきたら、花が咲いてしまっていたというわけだ。
家はそこかしこに花が咲いていた。焼け残ったもののなかみを吸って色とりどりに咲き誇っていた。
私はなにも割り切れていない自分にうんざりした。こんなにも執着しているものがこの家にまだあったとは。
その中に一つ、懐かしいものを見つけた。
植物辞典だ。古今東西あらゆる植物のイラストと説明が載っている。
モノに咲く花についても記載があった。幾度となく見たページに、幾度となく見た花を見つけた。薄いブルーの花。
私の右耳の付け根から生え、耳元に咲いているのと同じ花。
私は幼いころから花憑きだった。
この花の種を植えたのは母だ。
この花は、子を残したことを厭うた母の残した唯一の感情の名残であり、生きながらに花を植えた人間と心中を望んだ咎人の証でもある。
忘れられてなるものかという執着に見合わない、明るいブルーの花。
その感情を壊れないようずっと心に住まわせている私の執着の色。
抜けるような青い空が、暮れ始めるころの色。
それがいつか私を吸いつくして消える花の色だ。