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私から離れない首飾り

 久しぶりに森茉莉の「贅沢貧乏のお洒落帖」を読んでいた。
 心も体も疲れてしまうと一人になりたくなる性分の私は、高価であるか否かに関わらず、自分の感性が好む物だけに囲まれて夢を見るような文章が好きで、その生活が垣間見れるようで、森茉莉の世界に浸りたくなる。

 第三章 指輪・ネックレス・香水・嗜好品
の中に、「私から離れない首飾り」という文章がある。

 あることを思い出した。
 娘が1歳半から2歳くらいの時だっただろうか。
 まだ、ベビーカーで移動する頃だった。
 歯が生えてくるときにむずがる時用に、琥珀がいいのだと聞いた。
 小さな粒の琥珀が連なった子供用のネックレスは、確かドイツ製で、しかもおもちゃの価格だったと記憶している。

 ブランデーのような濃い色と、鼈甲飴のような薄い色の2色を交互につけており、意外とどんな色柄の服にも合うものだと思った。
 写真のように洗いざらしの麻のハンカチーフやガーゼでよだれを拭いながらも、良い歯が生えてくるといいと願ったものだった。

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 どちらの色のネックレスも未だに手元にとってあり、たまに私が腕に二重巻きにしてブレスレットとして使っている。

 しかし、鼈甲飴色の方は落としてしまったことがある。
 ベビーカーで歩くうち、どこかで落としたのだ。
 暫くは気が付かず、気づいたときには悲しい気持ちになったと思う。
 常に身につける物とは、そういう物である気がする。

 いつも通っていた坂道を降りていると、歩道の真ん中に落ちていた。
 誰にも拾われずに、自転車に轢かれもせずにそこにあったのを発見して、安堵したのを覚えている。
 その後も、クローゼットの引き出しの裏に落ちてしまったり、玩具箱の底に沈んでしまったり度々見えなくなるのだが、暫くすると発見される。

 私は、気に入ると長く長く大事に使う性分で、新しいものではなくて「それ」がいい。
 なので、いつか出てくることを信じて待つ。
 不思議なことに、信じていると出てくる。
 物とのご縁というのは、面白い。

 
 「私から離れない首飾り」は、大事にしていた首飾りが出てこない話。
 そして、何度も救出された首飾りが、十年間箪笥の後にあったために素晴らしい色になり、高貴にみえるという。

 「お茉莉、西洋では十六になって、最初の舞踏会に出る時に、始めて首飾りをするのだ。耳飾りも首飾りも指輪も、十六にならぬとしないのだよ。それだから値の安い玩具のようなのなら、買ってあげよう」と言った。そうして父は私の洋服と帽子をいつものように、伯林の洋服屋に注文した時、ごく値段の安い玩具同様の首飾りを一緒に注文した。それはモザイクの首飾りだったが、安いものである。

 なくなっていた間に、「ボッティチェルリの女神の頸にもぴったりの品のいい」様に変化した玩具の首飾り。
 最後は、首飾りを再び失わぬために銀行の保護預けに預けてもらう。

 そこで、私は大変に気に入っているし、首飾りの方でも、私から離れたがらないようなので、私はその首飾りについては今大変に安心であり、そうして又、そのことが大変に私を幸福にしている。

 

 経年劣化という言葉もあるけれど、そこにもまた、美しさはあると思っている私は、嬉しくなって琥珀の首飾りを再び出してみた。


書くこと、描くことを続けていきたいと思います。